←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2018年9月 2日 9日 16日 23日 30日 目次に戻る
 2018年9月30日 
「目を覚まして」加藤豊子牧師
ルカによる福音書12章35−38節



 主イエスは、結婚式から帰る主人の帰りを待つ僕について話されました。主人はいつ帰ってくるかわからない。夜遅くかもしれないし、明け方かもしれない。主人が帰って来た時に、すぐに戸をあけようと準備して待っている僕は幸いである。



 日本基督教団信仰告白の中に、「愛のわざに励みつつ、主の再び来りたもうを待ち望む」とあります。主の日は思いがけないときにやってくる。だから目を覚まして待つようにと語られています。



 「腰に帯を締め、ともし火をともしている」という姿は、僕がその職務を行う準備ができている姿です。私たちも、主の日を待ち望みながら、自分に与えられている役割を忠実に果たすようにと求められているのではないでしょうか。



 さらに、自分が僕であることを忘れて主人のようにふるまい、好き勝手に行動して周りにいる人々を傷つける僕の姿が示されています。これは、誰のことを言っているのでしょうか。一部の、上に立つ、指導的立場にある人々のことだけを指しているのではないと思います。主イエスに代わって、自分が主人になろうとする誘惑は、誰もが受けるものではないでしょうか。



 忠実で、良い管理人であることが期待されています。「主人の思いを知り」という言葉にあるように、何よりも主の御心を知ることが求められていることを覚えたいと思います。
目次に戻るページトップ
 2018年9月23日 
「神の装い」加藤誠牧師
ルカによる福音書12章22−34節



 「烏のことを考えてみなさい」(24節)と主は言われる。烏は聖書の中で時々登場する。ノアの方舟が最初で預言者エリヤを神は烏に食べ物を運ばせ養う。レビ記には食べてはならない(汚らわしいもの)ものの規定があるが烏はその中に入っている。つまり余り好まれてはいない鳥であったと言える。ヨブ記38章41節には「誰が烏のために餌を置いてやるのかその雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷いでるとき」とある。人から嫌われている烏の雛ですら、神に向かって鳴くときに神は応えて下さると聖書は私たちに告げる。



 主イエスは弟子たちが、群衆が、そして私たちが日常を生きるために、空の烏を見上げる事が出来ないほどに、食物や仕事や人間関係に翻弄されやすい存在であるかをご存じである。そのような私たちに主は「小さな群よ、恐れるな」と言われる。そして言われるだけでなくチャレンジされる。それが「自分の持ち物を売り払って施しなさい。富を天に積みなさい」である。



 富を天に積むことを主はチャレンジされる。8月から岡山の平島地区で台湾基督長老教会からの大工ボランティアのコーディネイトを行っている。このための費用を台湾側は1000万円用意したと聞いた。つまり航空運賃、宿泊費、食費、建材などは台湾側が負担する。



 富を天に積むとき、豊かにされるのは実は私たちの側である。神様の祝福を味わう方法を主イエスは私たちに教える。
目次に戻るページトップ
 2018年9月16日 
「神の前に豊かに」加藤豊子牧師
ルカによる福音書12章13−21節



 「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように、兄弟に言ってください。」

 群衆の一人が突然、主イエスに向かって言いました。足を踏み合うほどに、主イエスの周りに人が集まっていて、その話に耳を傾けていました。なぜここで、そんな個人的な話をし始めるのか、と思わされる場面です。当時のユダヤ社会では、遺産の殆どは長男が受け継ぐことになっており、また長男からその他の兄弟たちにも分けられることになっていました。この人は、自分には何も遺産を分けてもらえない、というような状況だったのかもしれません。とにかくそのことで、頭が一杯だったのでしょう。



 主イエスはそのことには直接お答えにならず、ある金持ちの話しをされました。この金持ちは穫れた作物をしまっておく場所がないほど、畑が豊作でした。この人は、もっと大きな倉を建てることにし、自分自身に向かって言いました。「これから先何年も生きていくのに十分な蓄えができた、さあ食べたり飲んだりして楽しもう。」すると神様がこう言われたのです。「愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる、お前が用意した物は一体誰のものになるのか」



 この金持ちは、「作物」、「倉」、「穀物」、そして「命」もすべて、自分のものであると考えていました。貪欲…もっと欲しいという思いに支配され、創造主なる神、命を与え生かしてくださっているお方を仰ぎ見ることができなくなっています。 神の前に豊かに生きる道を求めていきたい、と願います。
目次に戻るページトップ
 2018年9月9日 
「パン種に気をつけて」加藤豊子牧師
ルカによる福音書12章1−3節



 お隣の韓国では日本とは比べ物にならないほど大きな教会がたくさんあります。ある教派の今年の総会の最大の議案は世襲の是非だそうです。万を数える教会員を持つ教会の牧師であれば、息子に自分の地位を譲りたいと願うのはある意味当然かも知れませんが、そこに問題を感じる人も多くいるので議題になったのだと思います。



 主イエスは弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」と言われました。ファリサイ派の人々と主イエスが緊張関係にあったことは11章の後半から記されています。パン種とはイースト菌の事だと思いますが、だとするとパンには必要不可欠なものです。恐らく主イエスは普通のパン種の事ではなく「ファリサイ派の」に力点が置かれているのだと思います。「偽善」がパン種のように彼らの行動に潜んでいることを主イエスはご存じでした。そしてその偽善に私たちもからめ捕られやすいことも。



 4節以降も一連の流れの中にあります。しかし主の口調はファリサイ派の人々に対する厳しさとはうって変わります。短い文章の中で「恐れるな」と2回繰り返さえされています。これはルカによる福音書が記された時代が反映されているのでしょう。弟子たちに対する目が厳しくなってゆくことを主イエスはご存知です。そして私たちの髪の毛一本まで神に数えられているのだと主イエスは言われます。いつの時代であっても主イエスを信じる者とは、真に恐るべき方がどなたかを知る存在であることを聖書は伝えます。
目次に戻るページトップ