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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2018年6月 3日 10日 17日 24日 目次に戻る
 2018年6月24日 
「主イエスの後を」加藤豊子牧師
ルカによる福音書9章21−27節



 主イエスは弟子たちに対し「それではあなたがたはわたしを何者だ言うのか」と問いかけました。それに応えてペトロが「神からのメシアです」と告白したすぐ後、主イエスは弟子たちに、このことを誰にも話さないようにと命じられました。ペトロの告白は正しいものでした。しかし、イエスがメシアであるということが、何を意味しているのかを理解していたわけではありません。「人の子は必ず多くの苦しみを受け…」とこれからご自分が受けられる苦難の数々を明かされたとき、弟子たちは誰一人そのこ、とを理解し受入れることができなかったのです。



  「わたしについて来たいものは、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(23節)

 十字架を背負う、それは私たちには到底できないことです。すべての人の罪をゆるすたために、身代わりに十字架にかかってくださった、それと同じことが私たちに求められているはずはありません。しかし主は、日々、自分の十字架を背負って従いなさい、と招かれます。その十字架に示されているものとは何でしょうか。



 主イエスはご自分の命を捨てて、私たちを生かしてくださいました。自分の権利を主張し、自分の益のみを追求する生き方ではなく、自分を捨て、他者が生かされる道を選びとっていく、そのようなキリストに倣う歩みがそこには示されているのではないでしょうか。「日々」とあります。私たちの日々、日常生活の中で、それぞれに出会う人々との関わりの中で、仕える者として歩むようにと招かれているのではないでしょうか。
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 2018年6月17日 
「何者なのか」加藤豊子牧師
ルカによる福音書9章18−20節



 「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」主イエスは弟子たちに、そのように問いかけられました。このお方は一体何者なのか…それは、当時主イエスの周りにいる多くの人々の、共通の疑問でありました。領主ヘロデも主イエスのうわさを聞き、「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」とつぶやいています。



 多くの人々が主イエスのことを、預言者エリヤだ、昔の預言者が生き返ったのだと言うの中で、ペトロははっきりと「神からのメシアです。」と答えています。「メシア」とはヘブル語で、救世主、油注がれた者、神から選ばれた者という意味です。その言葉をギリシャ語で表すと「キリスト」となります。ユダヤの人々は長い間、メシアが与えられるという預言の言葉を信じ、その方の到来を待ち望んできました。ペトロはなぜ、イエスさま、あなたは神から約束されていたメシアです、とはっきりと告白することができたのか。大変不思議に思います。弟子として主イエスのそばにいて、その言葉と行動を見てきたからなのか、五つのパンで多くの人々の空腹を満たされた、その不思議なわざを目の当たりにしたからなのか。そこにはやはり、人の思いを超えた神の力が働いたからだと思わざるを得ません。



 人の決意は弱く、揺らぎやすいものです。ペトロも後に、主イエスの十字架を前にして「主よご一緒なら、牢に入って死んでもよいと覚悟しています」と決意表明をしましたが、すぐその後で主イエスを知らないと否定することになりました。信じます、従います、という決意表明は不確かなものです。しかし神はそのような私たちを、信仰告白へと導きまた支えてくださるお方であります。イエスはメシア、キリストである、という信仰告白の上に、教会は今日まで立ち続けてきたことを覚えたいと思います。
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 2018年6月3日 
「世の光」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書9章1−12節



 「シロアム教会30年の歩み」の中に大村勇牧師の一文がある。「イエスに出会った盲人がシロアムの池で目を洗った時、見えるようになったという出来事を、何か魔法か医療的な意味があったかどうかを問題にするよりも、シロアムという語が「つかわされた者」を意味する点に目を向けよう。神からつかわされたお方にそこで出会い、触れられた。その時ひとりの人の新しい視野が開け、新しい生が始まったのだ。この事実こそシロアム教会の歴史の意味である。・・十字架にかかり、よみがえられた主イエスが、その愛する弟子たちをこの世に『つかわす』、これが教会宣教の源泉である。シロアム教会は、この源泉にたえず立ち返り(礼拝)、たえず出て行く(伝道)ことにのみ存在の理由があることを銘記すべきであろう。」



 シロアムの出来事に教会の本質が見え隠れする。この盲人は神から「つかわされた」主イエスに出会ったことによって新しい生に招き入れられた。教会とは「つかわされた者」がいるところである。そこに主イエスがおられなければシロアムの池はシロアムの池のままである。もし教会に主イエスがおられなければそれ単なる十字架の付いた建造物でしかない。



 大村勇牧師が40年前に書き残してくださったように、シロアム教会が主イエスの教会に相応しく礼拝をささげる群であり、そこから遣わされていくものでなければ存在の意味がなくなるのである。この厳しくも温かい言葉を、この伝道の困難な状況の中で改めて覚えたい。同時にシロアム教会が主に愛され、多くの兄弟姉妹に覚えられ支えられて来たのかを70年の歴史を振り返るとき、神からの励ましとして覚えるのである。
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