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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2018年4月29日 
「希望の源である神」加藤誠牧師
ローマの信徒への手紙15章13節



 この15章でパウロは神を二通りに紹介しています。最初は5節「忍耐と慰めの源である神」、13節で「希望の源である神」。どちらもギリシャ語の原文には「源である」という言葉がありません。翻訳者のGood Jobでしょうか。



 1節には「強い者」「強くない者」という言葉があります。文脈上では信仰的に「強い人」「弱い人」と読めますが、一般論的に「強者」「弱者」と読んで当てはまるような気がします。経済的な強さ、弱さの問題は、国家にとって、そして個人にとっても大きな問題です。本気で強い国が弱い国を担えば世界ははるかに暮らしやすくなるはずです。パウロは私たちに「同じ思い」を抱かせるのは「忍耐と慰めの源である神」であると語ります。人ではないのです。人の忍耐、慰めには限界があります。



 7節からパウロは再び「異邦人」「ユダヤ人」の問題を取り上げます。教会は歴史的に争いのある地で何とか和解をもたらす努力をしてきました。世間に知られていないだけです。朝鮮半島の統一も主に韓国のキリスト者数十年にわたって世界に訴え祈り続けてきたことです。私は3月上旬にNCCK主催の朝鮮半島の平和を求める国際会議に出席しました。海外からは30名以上が参加して、非核化、朝鮮半島の平和について学び祈りました。



 パウロは「聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」と語ります。ここにキリスト者にとって聖霊がどのような存在であるかが語られています。
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 2018年4月22日 
「信仰はどこに」加藤豊子牧師
ルカによる福音書8章22−25節



 主イエスは弟子たちと一緒に船に乗り込み、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われました。船に乗ると主イエスは眠ってしまわれ、そこに嵐が襲ってきました。弟子たちは「先生、先生、おぼれそうです」と助けを求めて叫びますが、主イエスが風と荒波をお叱りになると、静まってなぎになったとあります。このガリラヤ湖での不思議な出来事は、ルカ以外にも、マタイ、マルコの福音書にも記されています。



 うろたえる弟子たちに、主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われました。この言葉は弟子たちだけではなく、私たちも何度か聞いたことがある言葉なのではないでしょうか。信仰を自分では持っていると思っていたけれど、何か突発的な出来事に遭遇したりすると途端にどこかに行ってしまったかのようになる…そんな経験が私たちにもあるのではないでしょうか。私たち自身は頼りないものです。しかし、主イエスは嵐の中にも必ずそこにいてくださり、信仰の歩みを守り導いてくださるお方です。



 この福音書を書いたルカは、パウロの伝道旅行に途中から参加した人物であり、使徒言行録も記しています。使徒言行録には教会の誕生の歴史とまた、激しい迫害にあった歴史も記されています。昔から教会は「船」に例えられてきました。嵐に揺れながらも向こう岸に向かって進む船の姿は教会の姿でもあります。激しい嵐にもまれるときも、その船には主イエスが乗っていてくださり沈むことはないのだと、このみ言葉はいつの時代も私たちを励ましています。
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 2018年4月15日 
「種を蒔く人」加藤誠牧師
ルカによる福音書8章4−15節



 主イエスのたとえ話である。普通「たとえ」は難しい話を分かり易くするために用いられる。しかし主イエスは「聞いても理解できない」ために人々に話すと語られた。そして弟子たちにはその意味をお話になる。勿論主イエスは農業の話をされたい訳ではない。



 神の言葉である「種」が育たない「道端」「石地」「茨」について説明されたが、正直に申し上げれば私自身の心は「道端」「石地」「茨」に近く「良い土地」であるとは人の前ではともかく、主イエスの前では絶対に言えない。恐らく弟子たちもそうであったろうと推測する。何故なら主イエスの十字架の何たるかを全く分かっていないからである。たとえ分かっていても「良い土地」になるのは並大抵の事ではないが。



 主イエスは群衆を、そして弟子たちを疎外しない。「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた、とある。これは主イエスの招きの「たとえ話」である。何故なら種を蒔く人が主イエスだからである。そして蒔かれた種には、神の言葉であるが故の命があるからである。「道端」「石地」「茨」を恐れては、当時のお百姓は種を蒔かなかったであろう。効率は悪かったであろうが、そういう姿を当時の人たちは見て知っていた。主イエスこそが真の種を蒔く人である。でなければ牧師は、教会は説教などできない。「良い土地」に落ち、豊かな実を結ぶことを信じて「種」を蒔くように弟子たちは召された。彼ら自身の心も「良い土地」となるように主イエスによって耕されながら。
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 2018年4月8日 
「仕える心」加藤豊子牧師
ルカによる福音書8章1−3節



 今日読んで頂いた箇所は1−3節で、大変短いところです。ここに記されているのは、二つのことです。一つは、主イエスが12人の弟子たちと一緒に神の国の福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられたということ。もう一つは、婦人たちがその旅に同行して主イエスと弟子たちに仕えていたということです。主イエスの宣教の働きに女性たちが同行していたということを語っているのは、四福音書の中ではルカだけです。



 女性たちが担った働きは、食事の準備や日常の世話や宿泊の手配など、多岐にわたったのではないでしょうか。「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(3節)とあります。この女性たちの働きとささげものがあって、主イエスと弟子たちの宣教は支えられていたと言えます。彼女たちの奉仕の多くは、見えない隠れたところでなされたものでした。教会の中においても、表には見えないところで担われている、多くの大切な奉仕があります。喜んでささげられる奉仕の業によって、教会の宣教の働きが支えられていることを思います。



 ここに登場するマグダラのマリア、ヨハナの名前は、主イエスの復活の場面にも出てきます。彼女たちは主イエスと行動を共にし、多くの者が離れ去る中最後まで主イエスの側近くにあり、マグダラのマリアは復活の主イエスに真っ先に出会っています。彼女をそうさせたもの、それは主イエスへの感謝と愛、それ以外のなにものでもありません。
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