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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2018年3月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2018年3月25日 
「来るべき方」加藤誠牧師
ルカによる福音書7章18−23節



 バプテスマのヨハネについて、一番詳しく伝えているのはルカによる福音書である。バプテスマのヨハネを通して、イエス・キリストがどのようなお方であるかを、聖書は語ろうとしている。今日のところでは、ヨハネが二人の弟子を通して「来るべき方はあなたでしょうか」という質問をさせている。バプテスマのヨハネは、主イエス・キリストに洗礼を授けた人物であり、主イエスと大変近い関係にあった。しかし、イエス・キリストが本当に来るべき方なのか、まだ迷いの中にあった。



 「来るべき方」とはどのような方なのか、と私たちは思う。当時、預言者エリヤのような人が、あるいはモーセのような偉大な指導者が現れて自分たちを救い出してくれるのではないかと期待されていた。さらには、ダビデ王のような、イスラエルの国を独立に導く方が来るべき方として登場することが待ち望まれていた。人々は、ダビデ王のように自分たちを敵であるローマから、戦って救ってくれる救い主を求めていたのである。しかし主イエスは、来るべき方はあなたですか、という二人の弟子の質問に、はいそうです、とはお答えにならず、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい、と言われた。



 主イエスが伝えたかったことは何か。それは、わたしはダビデのような来るべき方ではない、ということである。戦争をしてローマ帝国を倒す、そのようなメシアではない。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、…貧しい人は福音を告げ知らされている。」(22節)そのようなことを行うメシアとしてわたしは来たのである、わたしにつまずかない人は幸いであると主イエスは言われた。これは、バプテスマのヨハネへの言葉であると同時に、わたしたちに向けての主イエスの言葉である。
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 2018年3月11日 
「人生の土台」加藤豊子牧師
ルカによる福音書6章46−49節



 「家と土台」の話は、マタイの山上の垂訓の中にも出てきます。マタイでは、岩の上に家を建てた賢い人と砂の上に家を建てた愚かな人が比べられています。しかしルカでは、それとは少し異なる記述がされています。地面を深く掘り下げて岩の上に土台を置いた人と、土台なしで家を建てた人が比べられているのです。そして、主イエスの言葉を聞いてそれを行う人が、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ていると語られています。



 主イエスの言葉を聞いて、それを行うこと。これは、決して容易いことではありません。ルカ6章の平地の説教と呼ばれる主イエスの言葉の中にも『敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい』『人を裁くな』等、私たちが自信をもって実行できます、と言うことができない言葉が続いています。私たちは主イエスの言葉を行える者でありたいと心から願います。しかし、それは私たちの努力や熱心さ、あるいは長い信仰生活で可能になるものではありません。



 ここでは、深く掘り下げて、岩の上に土台を置くことが強調されています。私たちの信仰の歩みの土台、岩となり得るのはイエス・キリストご自身、そして聖書の言葉以外にあり得ません。そこに立ち続けること以外に私たちが日々の生活の中で良い実を結ぶ道はあり得ないのではないでようか。



 しっかり建てたつもりの家が揺らぐような、これまでの信仰の歩みがぐらつくような衝撃を受けることがあるかもしれません。しかし、どんなことがあっても私たちに命を約束してくださっている土台は真実で、揺るがないものであることを覚えたいと思います。
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 2018年3月4日 
「良い実を結ぶ」加藤誠牧師
ルカによる福音書6章43−45節



 この部分は勿論良い木の選別法を教えているのではない。当然のことながら主イエスの弟子についての教えである。しかし主イエスのお話は一見分かり易そうに見えて実に奥が深い。



 45節には「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し」とある。この節の最後は「語る」とあるのでここで言われている「良いもの」とは「良い言葉」と理解してよさそうである。「人の口は、心からあふれ出ることを語る」。その通りであるが、問題は私の口は心からあふれ出る良い言葉を語ることもあれば、同じ心からあふれ出る悪い言葉を語ることがある点である。しかも大体人間は自分に語られた100の「やさしい言葉」「愛情のある言葉」より5つの「意地悪な言葉」に長年傷つくものではないだろうか。



 ヤコブの手紙3章では「舌」は「不義の世界」であり「人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされ」、「悪」「毒」と散々に言われています。更には「同じ口から賛美と呪いが出て来る」と言われています。

 主イエスは弟子たちの二枚舌の現実をご存知です。叱責されているのでも絶望されているのでもありません。むしろ「良い木」になるよう励まされています。ヤコブの手紙3章ではその後、「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく・・・良い実に満ちています」(17節)と続きます。



 ヤコブ4章10節では「主の前にへりくだりなさい」と勧められています。私たちの心には「良いもの」も「悪いもの」も蓄えられています。主の前にへりくだる人こそ「良いものを入れた心の倉から良いものをだす」ことに長ける人へと成長させていただけるのではないでしょうか。
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