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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2017年11月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2017年11月26日 
「御手を置いて」加藤誠牧師
ルカによる福音書4章38−41節



 主イエスがどれくらいの間カファルナウムに滞在されたのかは分からない。シモンの姑のことを人々に頼まれたのは、安息日の会堂での礼拝後のことであった。39節に「熱を叱り」とあるが、この言葉は35節で主イエスが悪霊を「お叱り」になられたのと同じ言葉である。主イエスは私たちのささげる礼拝において「主」であるばかりではなく、礼拝後の日常においても「主」である。



 それを見ていたであろう町の人々は、日が暮れると病気で苦しむ人たちを恐らくはシモンの家に連れてきた。「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」とルカは告げる。どのようなやり取りが主イエスと病人の間にあったのかは記されていない。42節には「朝になると」とある。主イエスは一晩中一人一人に手を置いていやされたのである。「人里離れた所へ出て行かれた」主イエスを群衆は放っておかない。自分たちから離れないように引き止める。



 この二か月は今までになく国内外の出張が多かった。勿論2011年ほど殺人的なスケジュールではなかったにせよ、「人里離れた」ところに行く時間を見出すのが難しかった。メシアコンプレックスという牧師の職業病がある。「自分がやらなければ・・・」という思いが強すぎると生身の人間は消耗する。



 主イエスはこの後ユダヤの諸会堂に行って宣教された、とある。想像であるが、カファルナウムでの宣教の後は「人里離れた」ところで父なる神との交わりの時を持ってからユダヤに行かれたのではないだろうか。
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 2017年11月19日 
「力ある言葉」加藤豊子牧師
ルカによる福音書4章31−37節



 「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」(32節)

 「権威」という言葉には、あまり良い印象を抱かない方もおられるのではないでしょうか。それは、私たちの周りには権威を振りかざして強い発言をしたり、権威を誇るような人がいるからかもしれません。「権威」と、いう言葉は「支配する力」と訳すことができます。



 イエス・キリストは、闇を照らす光としてこの世に来られました。暗闇が、罪の力が支配するこの世界に、主イエスは救い主として誕生されました。そのことによって神の支配がこの地上にもたらさたのです。主イエスの権威は、人が努力して手に入れるようなものではなく、その存在そのものに権威、神の力が満ちていたのです。



 一人の悪霊に取りつかれた男が会堂にいた、とあります。当時、悪霊というのは好んで人間の身体の中に入り込んでそこに住み着き、その人を破壊する存在と信じられていました。現代のように医療技術が進歩していない時代、あらゆる難しい病は悪霊にとりつかれたせいだと考えられていました。本来なら会堂には居場所がないようなその男の人は、主イエスが来られるということを聞いて、救いを求めてその場にいたのではないでしょうか。



 自分ではどうにもならない苦しみ、病を抱えていたその人を、主イエスは力ある言葉によってその苦しみから解放してくださいました。預言者イザヤの言葉にあるように、捕らわれている者に解放を告げ、自由を与えるお方として、主イエスは私たちのもとに遣わされたのです。
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 2017年11月12日 
「故郷で」加藤豊子牧師
ルカによる福音書4章16−30節



 荒野での誘惑を受けられた後、主イエスは故郷ナザレに行かれ、安息日に会堂に入り、聖書を朗読されました。今のように、聖書を個人が持っている時代ではありません。聖書(旧約聖書)は人が抱えて持つほどの大きな巻物で会堂に大切に保管され、安息日ごとに朗読されていました。主イエスは預言者イザヤの言葉(イザヤ書61章)を朗読され、またその言葉についてお話をされました。



 故郷の人々はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた、とありますが、「この人はヨセフの子ではないか」という言葉にあるように決して主イエスに敬意を払って聞いていたわけではありません。『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない、という主イエスの言葉にあるように、不思議なわざを見せるようにと迫る人々もいました。主イエスはその要求にお答えになることはなく、旧約聖書を引用しながら異邦人にも及ぶ神の救いの恵みについて語られました。聞いていた人々は皆憤慨し、主イエスを崖から突き落とそうとまでしました。それは、人々にとってはとても受け入れられない、気に入らない話しだったからです。



 主イエスの言葉は故郷の人々に受け入れられませんでした。故郷だけではなく、多くの人々が神の救いの言葉として聞くことができなかったのです。主イエスが朗読された言葉は自由と解放を告げる預言者イザヤの言葉でした。そして「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスは宣言されました。この言葉をどう聞くのか、が私たち一人一人に問われています。
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 2017年11月5日 
「荒野を通って」加藤誠牧師
ルカによる福音書4章1−13節



 ある牧師から聞いた話であるが、西洋人は幽霊は恐れないが悪魔は恐れる。東洋人は悪魔は恐れないが幽霊を恐れるのだそうである。真偽のほどは分からないが、仏教には悪魔に相当する存在はないような気がする。(では幽霊はどのような存在か?と聞かれても困るが)



 主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことに続くお話である。「40日間、悪魔から誘惑を受けられた。」とあるので、その後に続く3つの誘惑は、40日間の誘惑を代表するものであろう。そうであってもこの3つの誘惑は、どこか私たちは遠いものに感じないだろうか?少なくても私は40日断食をしたことはない。(2週間ならあるが)権力や繁栄とは無縁の生活である。



 私たちの母教会では信徒の証が祈祷会では日常的にあった。受洗後に荒井さんという勤め人の証を聞いて考えさせられた。「会社から日曜日も仕事をすることを求められ、そうすれば確実に出世するが、自分には礼拝の方が大切なので一生ヒラでいる。」という内容であった。今日では日曜の出社を拒めば仕事そのものを失いかねないであろうが、40年前であっても大きな決断であったろう。



 教団の事務局にいると人が(牧師であっても信徒であっても、そしてそれが世間的には吹けば飛ぶよな「力」であっても)いかに「長」と名の付くものに弱いかを見せられることがある。自分の中にも「力」があれば、と思うことは何度もあった。主イエスへの悪魔の誘惑は、形を変え、大きさを変え、私たちの日常へも忍び寄って来るものであるが、主がすでに勝利されていることを覚えたい。
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