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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2017年6月25日 
「逃れの道」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一10章1−13節



 パウロがここで語っているのは、自分たちの先祖、イスラエルの民が経験した出エジプトの出来事についてです。昔エジプトで、奴隷として苦しみの中にあったイスラエルの民を、神は救い出してくださいました。神はモーセという指導者をたて、彼に導かれて民はエジプトを脱出することができたのです。それは、イスラエルの民にとっては原点とも言うべき救いの出来事でありました。

「皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。」(3,4節)

 荒野の旅の中で、天からマナを降らせ、岩から水を出し、食べ物飲み物を与えてくださったことが、今私たちが教会で与る聖餐の恵みに重ね合わせて語られています。



 しかし、そのような恵みをいただきながら、多くの人々が神の御心にかなわず荒れ野で滅ぼされてしまったと、民の不信仰な姿が示されています。パウロはこれらのことを、戒め、警告として語っているのです。

「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」(12節)

 わたしは大丈夫、信仰の道からそれることはないなどと、自身を持って言える人など一人もいないのです。



 出エジプトの出来事に示されている民の姿を思う時、誰が信仰を固くもって最後まで歩み続けることができるだろうかと不安にもなります。しかし、「あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(13節)と力強い励ましの言葉が語られています。逃れる道とは、出口という意味でもあります。真実なる神を見上げつつ、歩ませていただきたいと願います。
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 2017年6月18日 
「朽ちない冠」加藤豊子牧師
コリントの信徒への手紙一9章24−27節



 パウロは手紙の中で信仰者の姿というものを、競技場で走る人の姿に例えて語っています。今日のところでは「賞を得るように走りなさい」(24節)と勧めています。「競技場」という言葉はギリシャ語でスタディオンであり、スタジアムの由来となっています。スタディオンは長さの単位で1スタディオンは約185メートル。古代オリンピックの歴史は古いですが、その最初の競技はこの1スタディオン、約185メートルを全力で走る競技だったそうです。



 パウロが言っているように、一位になった人には賞、月桂冠が与えられました。賞をもらえるのは一人だけかもしれない。しかしレースに出る人全員が、賞を得ようと真剣に走ります。信仰の歩みというものもそのように、真剣に全力を尽くすものであって欲しい、そのような思いが「賞を得るように走りなさい」という言葉に込められているのではないでしょうか。しかし、それ以上にパウロが伝えたかったことは、その後に書かれているように思います。



 「競技をする人は皆、すべてに節制します。」(25節)

 オリンピックに出場するアスリートたちが、どれだけの練習を積み重ね、努力をしているか、私たちは知らされています。「節制」という言葉が表しているように、そこには自己管理、長い地道な自己訓練の日々が求められます。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。」(27節)とパウロは少し厳しい言い方もしています。



 信仰生活を続けるということは、そこには日々自分自身との戦いがあることを思わされます。「朽ちない冠を得るために」パウロはその恵を一人でも多くの人と、共に与ることを切に願っています。
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 2017年6月11日 
「自由な者」加藤豊子牧師
コリントの信徒への手紙一9章19−23節



 4回の宣教旅行にでかけ、福音を語り続けたパウロでしたが、その旅は迫害の連続でもありました。パウロに敵対する、教会の外からの攻撃も大きかったと思いますが、9章を読むとコリントの教会の中に、パウロを批判する人達がいたことがわかります。「わたしは使徒ではないのか。」パウロは感情を高ぶらせながら訴えています。パウロの宣教によって生み出された教会、身近に感じている、一番の理解者であって欲しい人達から批判されることは、大変つらいことだったのではないかと想像します。



 「わたしは、だれに対しても自由なものですが、すべての人の奴隷になりました。」(19節)

 「自由である」ということと「奴隷である」ということは、正反対、真逆のことです。自由であるということは、誰にも縛られない、支配されないということです。しかしパウロは自分は、すべての人に対して「自由」であると同時に「奴隷」なのだと不思議なことを言っています。



 8章で問題になっていたように、教会の中には偶像に供えられた肉など食べたら汚れてしまうのではないかと不安に思い、動揺している人たちがいました。偶像は神でも何でもないのだから気にしないで食べて大丈夫なわけですが、パウロはその人たちのことを配慮し、自分は自由だけれども食べるのを控える、と言いいました。自由だから何でも好きなようにするのだというのではなく、他者のためには自分に与えられている自由を制限する、控えるということです。相手が生かされることを心から願う、キリストの愛に根ざした行動と言えるのではないでしょうか。「何とかして何人かを救うため」「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」イエス・キリストが人々を愛しておられる、その愛に押し出されるようにして、パウロは喜んで仕える者として歩んでいます。
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 2017年6月4日 
「愛は人を造る」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一8章1−13節



 キリスト者にとって日本は異教がメジャーな国とも言える。もっとも普段それを意識する頻度はそう高くないのではないだろうか?先日近所の方から「牧師さんも新年にはおまいりに行くのですか?」と質問された。勿論悪意など全くなく単純な興味からである。行きませんと答えたが、補足説明をしたくなった。仏式の葬儀には何度も参加したことがある。地方に暮らせば当たり前にあることである。心がけることは礼を失しないということである。家族の中で一人だけキリスト者のケースで困るのが特に主婦は仏壇である。しかし家族が大切にしている宗教をキリスト者が大切にしてあげてもそれが偶像礼拝になるとは私には思えない。この説明で洗礼を受けた人が数人いた。



 パウロは自分一人の事を考えるなら異教の神殿で食事をすることになっても、本来偶像などあり得ないので気にするほどの事はないが、もし知識が不十分だったり信仰の弱い人がそれを見てつまずくなら、今後決して肉を口にしないとまで言う。

 大げさに感じる人がおられるかも知れないが、それがパウロの愛である。キリストがその弱い人のためにも十字架にかかられた事を知るゆえの愛である。



 コリントの教会には多くの問題があり、信者同士の裁き合いもあったようである。人は誰でも自分こそは神に愛されていると思いたい。神のために奉仕していると思いたい。しかし単純に人と人を比べる時に、そこには不平不満が生じる。パウロは彼/彼女のためにもキリストが死んでくださったと語る。なぜなら主イエスは人の弱さと罪をとことん担って十字架におかかりなった事をパウロは信じており、そのキリストに喜ばれる教会を育てたいと心から願っているからである。
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