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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2017年5月28日 
「召された者として」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一7章17−24節



 コリントの手紙を読むと、現代とは2000年の隔たりがあることがところどころ伺われます。第一にパウロは主イエスが再び来られる時まで余り時間がないと思っています。パウロの結婚についての考え方の背景には自身も「今危機が迫っている状態にあるので」無理がなければ現状にとどまるのが良いという考えです。ただ結婚関係については、妻は自分の体を自由にする権利を持たず、同時に夫も自分の体を自由にする権利を持たない、など今日の私たちが傾聴しなくてはならない事柄を述べています。



 もう一つ私たちが時代の隔たりを感じるのは奴隷という言葉です。当時のローマ世界では奴隷制度が生きていました。そして21節は新共同訳と口語訳では正反対に訳されています。「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。」に対して口語訳は「もし自由の身になりうるならむしろ自由になりなさい。」です。これは元のギリシャ語がどちらにも翻訳できるからですが、私としては口語訳の方に親近感を持ちます。ただパウロは奴隷制に触れることによって何か社会改革を目指していたとは思いません。むしろイエス・キリストを信じて救いを得ることが真の自由であることを伝えます。



 渡辺和子シスターの有名な言葉に「置かれた場所で咲きなさい」という詩があります。「置かれた場所で咲くということは・・・自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人を幸せにすることによって神があなたをここに植えたことが間違いではなかったと証明するのです。置かれた場所に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸になったりしては、私は環境の奴隷でしかない。」とあります。

 イエス・キリストに繋がって生きる事こそ人が環境の奴隷になることなく真に自由な者として主と人に仕えてゆく道を拓きます。
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 2017年5月21日 
「誰のもの」加藤豊子牧師
コリントの信徒への手紙一6章12−20節



 「わたしには、すべてのことが許されている。」(12節)

 この言葉が、2回繰り返されています。受け取りようによっては、非常に傲慢な印象を与える言葉です。わたしは何をしてもいいのだ、許されているのだなどと、一体誰が言えるしょうか。鍵かっこでくくられているこの言葉は、当時コリントの教会の信徒たちが口にしていた言葉でした。人間を魂と肉体の二つに分けて、魂だけを価値あるものとする考え方、グノーシス主義の影響は、肉体に関する事柄はどうでもいい、何をしてもいいのだという考え方へとつながっていきました。



 今日の聖書の個所には「みだらな行い」という言葉が何度もでてきますが、「みだらな行い」とは原語で「ポルネイア」であり、そこから「ポルノ」という言葉が生まれています。コリントの教会が、内に倫理上不道徳な問題を抱えていたことがわかります。



 パウロは「すべてのことが許されている」という言葉を否定しません。ある意味間違っていないからです。イエス・キリストはわたしたちの罪を赦すため、身代わりとなって罰を受け、十字架に架かってくださいました。そこで赦されない罪など何一つないのです。主イエスを救い主と信じ受け入れるならば、すべての罪は赦される、それが私たちに与えられている聖書の約束です。しかしそのことを前提としながら、パウロは「しかし、すべてのことが益になるわけではない」とコリントの人々を諭します。



 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(20節)

 主イエスの命という尊い代価を払って、神はわたしたちをご自分のものとしてくださいました。そして神の栄光を現す器として期待してくださっていることを心にとめたいと思います。
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 2017年5月7日 
「教会生活マニュアル」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一5章9−13節



 2000年前のコリントは性的な事柄に対しては比較的に寛大であったと言われている。人間のすることは特別に厳しい戒律でもない限りだいたい同じと思うので、今日の日本の状況と変わらないのではないでしょうか。

 ただその中でも「教会」が飛び抜けて寛大でひんしゅくを買うほどのものだとパウロは言います。それは父親の後添えを自分のものにしているという行為でした。しかも「教会」の人たちはその該当者を恥じ、諌めるどころか高ぶっているかのように思えるとパウロは厳しく諭します。



 3年前にローマ法王がイタリアのマフィアを破門にすると宣言して世界中で話題になったことがあります。未信者に破門は適用されませんからマフィアはカトリック教会に所属していることになります。カトリックの友人によると法王は体を張ってマフィアの圧力(暗殺)と闘っているのだそうです。勿論法王はただマフィアを破門にしたいのではありません。罪を悔い改めてキリスト者に相応しい生活をしてもらいたいのです。



 パウロの思いも一緒です。彼はコリント教会の信徒をただ裁いているのではありません。7節で「あなたがたはパン種の入っていない者なのです。」と語ります。取り除くべきなのは「古いパン種」です。そしてパウロは「過越祭を祝おうではありませんか」と呼びかけます。「過越祭」は旧約聖書に由来する神の救いを記念する祭りですが、ここではキリストの十字架と復活を意味します。



 私たちの中から古いパン種を取り除くことは自分の力では出来ません。イエス・キリストを救い主として信じる時に私たちの罪は赦されます。そして礼拝と聖餐に真実にあずかることによって私たちは神の子に相応しい歩みをするように招かれます。
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