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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2017年1月29日 
「パウロ、エルサレムへ」加藤誠牧師
使徒言行録21章1−16節



 パウロの第3伝道旅行の最後の部分である。ミレトスからカイサリアまでパウロ一行は船旅を続ける。2000年前の地中海ではまるで船旅が当たり前のように行われていたのであろう。

 ティルスとカイサリアで出会った弟子たちにパウロにエルサレムで起きることが暗示されるが、パウロは意に介さない。ティルスでは「弟子たちを探し出して」とあるが、ひょっとするとパウロ一行は正確な情報を有していなかったのかも知れない。



 カイサリアでは訪ねるべき人物ははっきりしていた。「例の7人の一人である福音宣教者フィリポ」である。フィリポについては使徒言行録6章に出てくる。この7人が選出されたことにより伝道は更に進むが同時に迫害も激化し7人の1人ステファノの殉教が起きる。サウロの登場によりキリスト者たちは使徒の他は「ユダヤとサマリアの地方に散って行った。」

 主イエスの言われた「ユダヤとサマリアの全土」とは迫害によって実現したのである。散らされて行った人々の中にはフィリポも当然含まれる。ルカは8章でフィリポの消息を語り、「カイサリアまで行った。」(40節)と締めくくる。



 カイサリアで何が起きたのか?20数年前に迫害したパウロと彼の迫害によってエルサレムを追われたフィリポが同じ主を信じ、主の宣教を行う者として再会したのである。どのような思いが二人の胸に去来したのかはルカは語らない。しかし少なくともパウロの気持ちは推測出来よう。謝罪と和解である。そのためにパウロはエルサレムで投獄される前に、何としてもフィリポに会いたかったのではないだろうか。ひょっとするとティルスで出会い彼らを一週間も世話をした弟子たちもパウロの迫害で故郷を追われた人たちであったかもしれない。その彼らはパウロ一行と別れる時は家族を連れて見送り、共に浜辺にひざまずいて祈った事が記されている。かつては憎しみにパウロは支配され、キリスト者たちは彼に言い知れぬ恐怖を抱いていたはずである。それが共にひざまずいて祈る者にされる。それが福音であることを使徒言行録は語る。
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 2017年1月15日 
「夜明けまで」加藤誠牧師
使徒言行録20章1−12節



 パウロの第3回目の伝道良港の折り返し地点での記事である。第1回目はバルナバとマルコの三人で始まったが、三回目ともなると同行者は増えていることが4節以下で分かる。ユダヤ人の迫害の情報があったため、パウロ一行は予定を変更して帰路につく。

 トロアスで7日間滞在したその6日目が「週の初めの日」であった。19章のエフェソあたりまでは伝道の場として「会堂」つまりユダヤ人の会堂が出てくるが、20章になると「会堂」という言葉は出てこない。人々が集まっていたのは恐らく個人の3階建ての家である。「週の初めの日」とは現代の日曜日を指すので、ここでは初代の礼拝の様子の一部をうかがい知ることができる。



 「わたしたちがパンを裂くために集まっていると」パウロが話を長々と始めた。当時は日曜日が公式の休日ではなかったため、人々は家の教会に仕事帰りに集まり夕食を共にし(愛餐)聖餐式を守っていたのではないかと考えられます。パウロの話は夜中まで!続きますが、ここで用いられている言葉から古い教会用語で「説教」を意味するホリミヤというラテン語が由来しますので、パウロは雑談をしていたのではなく説教をしていたのです。



 エウティコという青年について詳しいことは分かりません。彼は長々と続くパウロの話で居眠りをし、3階の窓から落ちて亡くなります。パウロは彼の中に神の命がまだあることを知りパウロの手により青年は教会の交わりの中に再び戻されます。ルカは12節の最後に「大いに慰められた」とこの記述を締めくくります。



 実は時間の経過をたどれば20章の1節から12節まではおよそ1年が過ぎています。1,2節で「励まし」という言葉が重ねられ12節では「慰め」という言葉で締めくくられています。聖書がここで伝えたかったことは、いかにパウロがみ言葉を伝えることで人々を励まし、み言葉を聴いた人々が慰められたか、ということでありましょう。そこにこそ教会がみ言葉を語る理由があります。
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 2017年1月8日 
「主の言葉を聞く」加藤豊子牧師
使徒言行録19章1−10節



 第3回目の伝道旅行でエフェソを訪れたときのことです。パウロはそこにいた何人かの弟子たちにこう尋ねました。「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか。」私たちも同じ質問をされたら、戸惑うかもしれません。毎週の礼拝の中で、わたしたちは教団の信仰告白、また使徒信条を通して「聖書において証せらるる唯一の神は、父、子、聖霊なる三位一体の神にていましたもふ」「我は聖霊を信ず」と告白しています。でもいざ聖霊について説明しようとすると難しいと思わされます。



 コリントの信徒への手紙一12章3節にはこう記されています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」イエスこそ、わたしの救い主である、と信じ告白するということは、そこに豊かな聖霊なる神の働きがあるのだということを聖書は語っています。そして、イエスは主であると告白し、イエスの名による洗礼を受けるということは、主イエス・キリストと結ばれることであり、また私たちは洗礼を通して主イエス・キリストの死と復活にあずかり、新しい命に生きる者とされているのです。



 パウロはエフェソで、いつものように会堂で福音を語ろうとしました。しかし、ある人達がかたくなに信じようとせず、また非難されたので会堂を離れることになりました。そこで場所を変えて講堂で話をするようになりました。講堂(スコレー)は学校、スクールの元になった言葉で、アジア州の大都市エフェソにある講堂には、様々な人が集まっていたと思われます。パウロたちは2年間そこにとどまり、福音を語り続けました。その結果、「ユダヤ人であれギリシャ人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。」(10節)とあります。



 非難されて会堂を追い出されたことは、失敗、挫折のように思われます。しかしそのことがあったからこそ、別の所へ導かれさらに福音が広く宣べ伝えられる結果となりました。人の計画通りに進まない…という中に、不思議な神の導きが備えられていたことを知らされます。
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 2017年1月1日 
「新しい旅の始まり」加藤誠牧師
使徒言行録18章18−23節



 使徒パウロの第2回目の伝道旅行の終わりと3回目の伝道旅行の始まりが記されている。第2回目の旅行の終わりにパウロは誓願のために髪を切ったことが記されている。この場合は髪を剃ることを意味する。旧約聖書にはナジル人のことが記されているが、パウロも髪を剃ったあとは伸びるにまかせていたのであろうか?



 誓願の内容は分からない。しかしエフェソに到着後、土地の人たちから「もうしばらく滞在するよう」願われるのであるが、パウロはそれを断り「神の御心ならば、また戻って来ます。」と言い先を急ぐ。エフェソの人たちから滞在の延長を願われるほどパウロはそこで受け入れられていた。コリントやその前の滞在地であったようなユダヤ人による騒ぎはここでは記されていない。命の危険をパウロたち一行はエフェソでは感じていなかったのではないだろうか。これはむしろ異例とも言える事態である。しかしパウロは先を急ぐ。「一行」の残りの人たちの意見は取り上げられなかったのであろう。



 それほど先を急ぐ理由を聖書は語らない。つまり恐らく「誓願」の故と解釈しても怒られないであろう。パウロにしてみれば「誓願」を立てたその事柄こそ「神の御心」と信じていたのではないだろうか?そして彼の健全さはエフェソの人たちの願いに対して「神の御心ならば、また戻って来ます。」と答えるところにある。少なくても私は自分の中にある願いが、信仰的、教会的であればあるほどそれが「神の御心」と信じたがる傾向がある。



 3回目のパウロの伝道旅行でルカはガラテヤやフリギヤ地方の巡回のことはさらっと流し19章をまるまるパウロのエフェソ伝道に割く。しかも10節では「このようなことが2年も続いた」と言うのである。これを「神の御心」と言わずして何と言うのであろうか?ケンクレアイの誓願の事などどこかに行ってしまったかのようである。

 新年という私たちの新しい旅の始まりも「神の御心」を求め、そこに従う旅でありたい。
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