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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2016年12月25日 
「新しい道を」加藤誠牧師
マタイによる福音書2章1−15節



 主イエスの誕生に合わせるように東から占星術の学者たちがエルサレムに来たことが告げられる。「東から」と言うだけでどこの国かは分からない。ドイツのケルンにある大聖堂にはこの学者たちの遺骨が黄金の棺の中に眠っている。更に名前や出身地までパンフレットには記されていたと記憶している。



 「東」という言葉が聖書に最初に登場するのは「エデンの東」である。弟を殺害したカインが住む場所がエデンの東、ノド(さすらい)である。意味からすると町の名前というよりは「安住の地を待たなかった」と理解出来そうである。

 創世記11章にはバベルの塔の記事があるが、この塔を建てたのが「東の方から移動してきた人々」である。その前の10章には最初の「王国」を築いたニムロドがいる。アッシリア、ニネベなどという地名が当時あったのかは分からないが、少なくとも紀元前8世紀のイスラエルにとっては禁句に等しい地名である。



 マタイが「東の方から」と記すことに何か意味を持たせたかったのかどうかは分からない。ただ旧約では「東」は文明、経済、軍事力が進んでいるというイメージがあるように私には感じられる。そして、だからこそ「東」は「ノド」、さすらいの地なのではないだろうか?



 学者たちは羊飼いと違い、王に謁見も出来るし、長期の旅をするだけの経済力もあるエリートである。しかしそれ以上に強調されるのが、「ユダヤ人の王・・・拝みに来たのです。」という言葉である。ただ一途に拝みに来たのである。星に導かれ、み言葉に導かれ。そして彼らは献げる喜びを知る人たちであった。

 ヘロデ王の計略を超え、彼らは「別の道」を通って故郷に帰る。彼らそれぞれに備えられた新しい道を歩むのであるが、その詳細を聖書は語らない。一つ言えるのは主に出会った人には神から「別の道」が示されるのではないだろうか?ということである。
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 2016年12月18日 
「エリヤの霊と力で」加藤誠牧師
ルカによる福音書1章1−17節



 著者のルカがこの物語を記したのはAD80年代と考えられている。つまり主イエスの十字架の死と復活から50年ほど経っている。その間に主イエスについての大小様々な文献をルカは目にしたことであろう。「詳しく」「順序正しく」という表現に歴史家としてのルカの自身が窺える。



 当時祭司の組は24あり、それぞれ1000人近く所属していたと考えられている。つまり香をたく務めに当ることは極めて稀であった。そのザカリアにはエリサベトという妻がいたが子どもはいなかった。当時の子どもを産めない女性に対する風当たりの強さは私たちの想像を超えるものであったろう。しかし聖書は「二人とも神の前に正しく・・・非のうちどころがなかった」と言う。



 長い間子供が与えられるよう祈ってきたザカリアの祈りは、彼が香をたくその日に天使によって叶えられた事が伝えられる。しかしザカリアはそれを信じることが出来なかった。聖書を読んでいてしばしば思わされるが、神の恵の出来事は人の不信仰を超えて実現し、実現する過程を通し人を不信仰から信仰へと導く。



 生まれる子は「エリヤの霊と力で主に先立って」行くことが示される。エリヤはザカリアの時代から数百年遡った時代の預言者であり、特別な仕方で帰天した人物である。その喜ばしい天使の言葉を、しかしザカリアは人に語ることが出来なくなる。天使から子供が生まれるまで口がきけなくなると言われたからである。



 子どもが生まれるまでの約10か月、どのような思いでザカリアが過ごしたのかは、その妻エリサベトの言葉から判断するしかないが、恐らく彼は10か月の間、繰り返し天使の言葉を反芻し、話せない苦しみより話すことの出来る日を喜びをもって待ち望んだのではないかと思う。「この子の名はヨハネ」と書いた後のザカリアの神への賛美は近所の人々をして神への恐れを抱かせるほどのものであった。
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 2016年12月11日 
「共におられる神」加藤豊子牧師
マタイによる福音書1章18−25節



 降誕物語の中では、マリアの方がヨセフよりも注目されやすいかもしれません。しかし、マタイ1章18節以下を読むと、ヨセフも大切な役割を果たしたことがわかります。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」ヨセフが聞いた天使の言葉は、理性ではとても受け入れられないことでした。しかし彼は、その言葉を神の言葉として受け入れ信じました。降誕物語の背後には、ヨセフの苦悩、迷い、恐れ、そして信仰と決断があったことを思わされます。



 『…その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」23節

 主イエスがこの世に生まれてくださったことによって、神は私たちが近づくことができない、遠くにおられるお方ではなく、私たちのそばに、共にいてくださるお方となられました。私たちは主イエスを通して、神に近づくことができます。

 神が共におられる、それがクリスマスの喜びです。私たちがどのような者であっても、迷いやすい失敗を繰り返してしまうような者であっても、またどのような状況になっても、神は共にいてくださいます。



 また、神が共におられる、そのことを信じて生きるとき、私たちはどのような歩みへと導かれるでしょうか。主イエス・キリストは小さな灯のように飼い葉おけの中に生まれてくださいました。立派な強い、王の栄光をあらわすような光として輝いておられたわけではありません。その灯はやがて、弱い者、虐げられている者に寄り添い、友なき者の友となり、ご自分の命を犠牲にしてその愛を示してくださいました。

 私たちもこの灯、主イエスと共に歩むものとされるとき、小さな弱い者を守り愛する者、平和を愛する者へと変えられていくのではないでしょうか。クリスマスを前にして、私たちも「神が共にいます」という歩みへと招かれていることを覚えたいと思います。
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 2016年12月4日 
「輝く光」加藤豊子牧師
イザヤ書8章22−9章6節



 アドベントの時期、私たちはよく旧約の預言書、特にイザヤ書を読みます。なぜなら、そこに救い主イエス・キリストの誕生を指し示す言葉を見出すことができるからです。クリスマスの物語は、旧約の歴史と切り離されて、ある日突然起きたという出来事ではありません。



 静岡にいた頃、保育園のページェントで毎年歌われていた子ども讃美歌を思い起こします。『むかしユダヤの人々は 神様からのお約束 尊い方のお生まれを うれしく待っておりました。尊い方のお生まれを みんなで楽しく祝おうと その日数えて待つうちに 何百年もたちました。』本当のところは、うれしく待っていたというわけではなく、国が滅ぼされまたやがてはローマの支配下に置かれるという苦しい状況の中、メシアを待ち望んでいたのだと思います。何百年も待ちました、とありますが、イザヤが活動したのは主イエスの誕生から700年も前のことです。



 「闇の中を歩む民」(1節)それは、国が滅亡の危機に陥っているイスラエルの民の姿でありました。神を忘れ神に背を向けて偶像礼拝を繰り返した罪の結果であると聖書は語ります。「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放…」(イザヤ8:22)とあります。地を見渡せば今の私たちの世界も、争いの絶えない、苦悩や様々な不安に満ち、格差が広がり貧しい弱い者が虐げられている…暗闇を感じる世界であります。



 イザヤはしかし、ここで「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見」と希望のメッセージを語ります。そしてひとりのみどりごが、ひとりの男の子がわたしたちに与えられた、と確信をもって救い主の誕生を預言します。

 「驚くべき指導者」とその名が呼ばれています。これは、相談役、カウンセラーと訳すことができる言葉です。私たちの人生のあらゆる場面に寄り添い、またご自分の命を犠牲にしてまでその愛を表してくださった救い主は、優れたカウンセラーでありまたそれ以上のお方であります。
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