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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2016年2月28日 
「イエスとペトロ」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書18章15−18節



 主イエスは兵士たちには縛された後、大祭司の審問を受けます。その屋敷の中庭に、弟子のペトロは、名前は分かりませんがもう一人の弟子の手引きにより入ることができました。

 何故ペトロは他の弟子たちのように逃げ出さなかったのでしょうか?ヨハネ福音書では捕縛に来た兵士たちに主イエスが「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」(18章8節)と告げたことを伝え、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と伝えるマタイよりは弟子たちに好意的な印象なのですが、ペトロが大祭司の中庭にいる危険性に変わりはありません。更にペトロは弟子の中でただ一人剣で抵抗し、大祭司の手下に怪我を負わせています。13章37節でペトロは「あなたのためなら命を捨てます。」と主イエスに約束したことをそのまま実行したのではないでしょうか。つまり主イエスのためには命を捨てる覚悟で中庭にいたのではないかということです。



 そのペトロが門番の女中に「主の弟子ではないか」と問われ「違う」と答えます。更に2回質問は鋭さを増しマタイによる福音書ではついにペトロは呪いの言葉さえ口にして主イエスを知らないと言ってしまいます。するとすぐに鶏が鳴きペトロは「鶏が鳴く前に3度わたしを知らないと言うだろう。」という主イエスの言葉を思い出します。



 何故ペトロの決心が鈍ってしまったのか、その理由は分かりません。しかしヨハネ福音書は、主イエスが復活後ペトロに3度「わたしを愛しているか」とお尋ねになり「ペトロがどのような死に方で神の栄光を現すようになるか」をお語りになりました。大祭司の中庭で或いはピラトの裁判でペトロが死に場所を求めたとすれば、それは神様のみ心ではなかったことが示されています。けれども主イエスはペトロのその思いを軽んじられた訳ではないのです。



 主イエスはご自身の死を通して神の栄光と愛と救いをお示しになりました。ペトロもその生涯を通して神の栄光と愛を示すように招かれています。
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 2016年2月21日 
「勇気を出して」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書16章25−33節



 「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(28節)

 十字架の死を前にして語られた、主イエスの訣別の説教の最後の部分です。主イエスはご自分が父なる神のもとからこの世に遣わされた者であり、そして今や、この世を去り、天の父のもとに帰る日が近づいていることを示されました。



 弟子たちは「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。 」と、その信仰を告白しました。それに対し主イエスは、あなたがたは散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来ると語られます。その言葉通り、立派な信仰告白をした弟子たちは主イエスが捕らえられた時、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまうことになります。



 私たちの信仰はなんと弱く、揺れ動きやすいものかと思わされます。私たちの熱意とか決意とか意志の強さなど、私たちの内側にあるものは何一つ確かなものはありません。私たちは洗礼を受ける時、主イエスを救い主として信じますと神と人との前で告白をします。その信仰を変わらずに持ち続け、何十年か後もしっかりと信仰者として立っていられると自信をもって答えるのは難しいのではないでしょうか。私たちの信仰は弟子たちと同じように実に頼りないものです。そしてそのことは、私たち以上に主イエスご自身が一番よくご存知なことなのです。



 主イエスは弟子たちの頼りない信仰を責めたり叱ったりなさいませんでした。そうではなく、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33節)と励ましてくださいました。私たちの信仰は自分の熱意、意志の強さによって保たれるのではありません。この主イエスの、励ましてくださるその愛によって私たちの信仰の歩みは支えられています。「勇気を出しなさい。」と何の根拠もなく言われているのではありません。主イエスは十字架と復活を通して、神に敵対する最大の力、罪と死の力に打ち勝ってくださいました。そして主イエスと共に歩む私たちも、その勝利に与る者とされていることを覚えたいと思います。
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 2016年2月14日 
「主イエスにつながって」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書15章1−10節



 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(1節)「ぶどうの木」については、旧約聖書においても度々語られています。旧約おいてぶどうの木とは、神に選ばれ、愛されているイスラエルの民の姿を示しています。神はぶどう畑の農夫であって、良い豊かな実りを期待してぶどうの木(イスラエルの民)を植えたのです。しかしエレミヤ書2章21節には次のように記されています。

 「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる、確かな種として植えたのに、どうしてわたしに背いて、悪い野ぶどうに変わり果てたのか。」

 そこに示されているのは、神の愛と期待を裏切った背信の民の姿です。それに対し、主イエスはご自分こそ「まことのぶどうの木」であると語られました。主イエスこそ、神の愛に応えて良い実を実らせることができるまことのぶどうの木なのです。



 「わたしにつながっていなさい。」(4節)と主は招かれます。つながる、というのは簡単に切り離すことのできない関係です。そこには血が通っている、そしてわたしたちは主イエスの命に生かされているのです。「つながっている」という言葉にはとどまる、住む、続けるという意味があります。主イエスにつながっているとは、その豊かな交わりの中に自分自身を置き続けるということ、具体的に言えば、祈りの交わりであり、聖書の言葉に聴くことであり、また教会につながり続けるということでしょう。そしてそのように主イエスにつながり続ける時、わたしたちは豊かに実を結ぶことができると約束されています。



 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(12節)

 「互いに愛し合う」これがわたしたちに期待されている実りです。主イエスが十字架の上で示してくださったように、自分を捨てて他者を生かす、その愛に生きることは難しい課題です。しかし、主イエスにつながっているならば、主がその実を結ばせてくださると約束されています。そこに希望が与えられていることを覚えつつ歩ませていただきたいと願います。
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 2016年2月7日 
「道、真理、命」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書14章1−14節



 主イエスと弟子たちそしてマルタとマリアとのやり取りから明らかになるのは、いかに彼らが(私たちが)主イエスの言葉を、約束を主イエスの思いに到達することなく受け止めているか、ということである。

 弟子たちは何故主イエスが、ラザロの病の知らせを受けても尚2日留まっておられたかを悟れない。トマスの「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか。」という言葉を私は笑えない。弟子たちは弟子たちなりに真剣であった。

 ユダヤの葬儀では3日間は故人のために泣く、と何かに書かれてあった。死後、直ちに墓に葬られたようであるが、マルタとマリアの姉妹は4日目に主イエスが現われた時には絶望と疲労の極致にいたと思う。



 主イエスの言葉は最短で事の中心を突く。「あなたの兄弟は復活する。」(11章23節)この驚くべき愛と慰めに満ちた主イエスの言葉も、その真意はマルタに届かない。マルタは終わりの日の復活と理解した。主イエスは更にストレートに「私は復活であり命である・・・・このことを信じるか」と問う。マルタの応えは立派な信仰告白であるが、この時は「あなたが復活であり命です」との応答が期待されたのではないだろうか?

 この後マリアも登場するが、同じやり取りが主イエスとの間に繰り返される。実際に墓に行き、石を取り除けようとするとマルタがその行為を遮る。主イエスが復活であり命である事を信じていないからである。恐らくはマリアも弟子たちも誰一人主が復活であり命である事を信じていない。しかし主は「もし信じるなら、神の栄光が見られる、言っておいたではないか」と声をかけてからラザロをこの世の命へと呼び戻す。



 主イエスは弟子たちを、姉妹を、そして私たちを叱ってはおられない。むしろ主イエスの命へ、信仰へと招いておられる。神の栄光が現われる世界へと私たちを招いておられる。神の栄光は主イエスの十字架と復活に現われるからである。
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