説教の要約:2017年4月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2017年4月2日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
3:34 そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 3:35 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。」(マルコ3:34-35)
 
題「神の家を造る戦いをされる方」(マルコ3:19b-35)
1)主イエスはシモンとアンデレの家に帰られた。人々で混雑する中で、ナザレの身内の者がイエスは気が狂っているといううわさのため、主イエスを取り押さえに来た。エルサレムからの律法学者たちも、悪霊の頭によって悪霊を追い出しているとして、働きを止めさせようとしてきた。
2)主イエスは「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」と神の国の働きを進めた。キリストは神の国について、多くの譬えで語られた。この箇所の譬えはその初めであると考えられる。神の国に属することは、神の家族に加わることである。肉の家族が、イエスの働きを理解できず、それ妨げに来た。しかし神の家族は神の御心を行う者であるとされた。
 律法学者たちが、主イエスの悪霊の追い出しをベルゼブルによると批判した。しかし、主イエスは譬えをもってそれを否定された。
 律法学者たちは主イエスに働く霊を悪霊としたが聖霊の働きを認めないことは自らを救いから離してしまうことである。
 
 
 
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第二主日礼拝:2017年4月9日(棕櫚の聖日)
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「 19:26 イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。 19:27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。」(ヨハネ19:26,27)
 
題「十字架上のイエスが結ぶ神の家族」(ヨハネ19:25ー27)
 十字架上のイエスが母マリヤに、その隣にいる、愛弟子である、おそらくヨハネであろうと考えられているが、「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です。」と言われ、またこの弟子に、「ごらんなさい。これはあなたの母です」と言われて、二人を新しく紹介した。これは単に、大事な長男を失う母を、信頼する弟子に託したという意味だけではない。
「イエスは今や万事が終ったことを知って、」このことをされて、主イエスが来られた大事な目的であった働きが成された、と考えられるから。
「婦人よ、」:カナの婚礼。しかし、私の時はまだ来ていません、と。ヨハネ福音書で、何度も、時は来ていませんとある。十字架への歩みをされる時、時が来た、と言われた。ヨハネ13:1、マルコ14:41。このことを通して、万事が完成した、成し遂げられた、と言われた(ヨハネ19:28,30)。
 母マリヤ、また、共に歩んできた女たちもそこにいた。(ルカ8:2) この人たちは、キリストの側にいて、キリストに仕えていた人たち。キリストに愛されていた人たち。イエスが愛されたように互いに愛し合う人たち。キリストの愛のうちにおる、キリストのいましめを守る者たち。
 時が来た。女の出産の時。苦しみの時だが、それが喜びに変わる時。子供が生まれる。家族が与えられる。十字架上の主イエスが、十字架のイエスの前に立つ人々を神の家族に結び合わせて下さった。十字架の主が新しい家族、神の家族の絆を造られる。
 
 
 
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十字架記念礼拝:2017年4月14日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
23:46 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。」(ルカ23:46)
 
題「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:44-49)
十字架上の第七番目の言葉。
ユダヤ人にとっては決して特別の言葉でではなかったよう。夕べの祈り、一日のわざを終えて床につく時の祈り。詩篇31:5。「 31:5 わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。」主の地上の最後の祈りの叫びを、十字架の主に従って十字架を負って生き、また死んだキリスト者たちは、これを一日の終わりの言葉として共に生き、また自分たちの最後の神に身を向ける言葉としたであろう。
 詩篇の記者は、自分が窮地に追い込まれて、絶望するような状況を訴えている。しかし、そこでゆだね、贖いを求め、救い出されて、神を誉め讃えている。主イエスも、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の叫びを挙げ、また、「渇く」と訴えられた。しかし、それを通して、救いの、贖いの計画は「成し遂げられ」、神の御手にご自身をゆだねられた。「苦しめられ、十字架に付けられて殺され、3日目に甦らされる」という預言は成就された。ゆだねる祈りをもって、神の御業を成し遂げる模範を示された。
 ステパノも殉教の死を遂げたが、天におられるイエスを仰ぎ見、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」と祈りつつ、眠りについた。
 主イエスは、「父よ、」を祈られた。「御心が天になるように、地にもなさせたまえ」は主の祈りであり、また、ゲツセマネの祈りであり、父にゆだねる祈りであった。愚かな金持ちは、多くの収穫に有頂天であったが、その夜に命を失うことになった。神に対して富む者となり、命を得る者となりたい。
 様々な状況が起こってくる中で、神に望みを持つ。諦めるのではない。成り行きに身を任せるのではない、私を愛し、神の子とし、良きものを与えて下さる神に委ねる。
 やがてキリストが現れる時、「キリストに似た者と変えて下さる」(Tヨハネ3:2)そういう終末における望みも視野に入れて、今の生活をキリストを模範として歩みたい。
 
 
 
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第三主日復活祭(イースター)礼拝:2017年4月16日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。 」(ヨハネ20:22,23)
 
題「新しい喜びを満たされる主」(ヨハネ20:19ー23)
 弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、家の戸を固く閉めて、閉じ籠もっていた。また主イエスを裏切ったと思う恐れもあったかもしれない。主イエスはそこに入って来られ、「平安があるように」を告げて下さった。シャロームは日常の「おはよう」「こんにちは」の挨拶の言葉であり、また、「平和があるように」の言葉である。復活のキリストが手と脇の傷を見せつつ、平安を告げた。弟子たちは死を越えるキリストの命を見て喜んだ。
 息を吹きかけて「聖霊を受けよ」とおっしゃった。初めの人アダムは、神が塵を集めて人の形とし、神の息を吹き込んで生きる者とされた。甦られた主イエスは弟子たちに命の息を吹き掛け、聖霊によって生きるようにと言われた。
 最後の食事において、助け主、真理の御霊を父である神が送って下さることを約束された。聖霊がキリストのものを受けて、弟子たちに伝えること、聖霊の働きについて語られた。そのお約束が真実であり、平安を得、喜びに満たされた。
 キリストの新しいいましめは、キリストが愛されたように互いに愛し合うことである。イエスの弟子たちの共同体は互いに愛し合う群れであり、それを聖霊が導かれる。
 主イエスは弟子たちに、罪の赦しの働きを委託された。 
 
 
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第四主日礼拝:2017年4月23日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
わたしは、天においても地においても、いっさい の権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは 行って、すべての国民を弟子としなさい。
 見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがた と共にいるのである」(マタイ28:18〜20)
 
題「求道者のもとへ」(マタイ28:10ー20)
 主は復活直後、弟子たちに福音宣教のご命令を下された。
1)教会から派遣される
 イエス様は「行って」と命令されている。行くとはある場所から目的地に出発すること。弟子たちはイエス様のもとから出発した。クリスチャンは教会から出発する。私たちも毎週日曜日に礼拝を献げて、それぞれの宣教する場所へと派遣されている。17節で山の上で弟子たちは、復活した主イエスにお会いすることができた時、弟子たちはまず、主イエスに「ひれ伏した」(新共同訳)。礼拝は、神の前に自分が小さくなり、畏れ敬い、罪を悔い改め、恵みに感謝し、栄光を賛美するという態度だ。つまり、神を大きくするということ。
まず礼拝の中で、主のみこころに心を向けよう。
2)私たちが派遣される
 主イエスは、十字架の死と復活を通って、あらゆることに勝利された。その一切の権能を受けて今度は、「それゆえ」あなた方は、主の復活の勝利の福音を宣べ伝えていきなさいと言われる。これはすべてのキリスト者、信徒への課題である。  主は、私たちでなければ福音を伝えることができない魂を備えておられる。あなたの家族・親戚・友達、人によっては会社の同僚、近所の住人、同級生など、多くの人を備えておられる。 私たちは多くの未信者の中から、求道者を発見する必要がある。
3)主も共に派遣される
 私たちは自分の力で伝道するのではない。主が一緒にいてくださり、私たちを用いてくださるのだ。
それが約束だ。主が私たちと一緒にいてくださる第一の目的は、私たちの伝道を助けるためであることを忘れないようにしよう。
 小さな一歩を踏み出す。イースターやクリスマスの行事に誘うのだっていい。トラクトや聖書を手渡すことだっていい。病気のために祈ってあげることもよい。 ただ、信仰の恵みは、自分の言葉で伝えなければならない。主もそのことは福音書で語っている。そういったことが、「すべての民を弟子に」することの、小さな第一歩となる。
 このように、イエス様が教会に与えられた大切なご命令を、教会が実行して伝道を続けていく時、御心に従う教会となり、主も多くの人を私たちの群れに加えてくださるだろう。私たちの教会もこのご命令を実行する教会になろう。
 
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第五主日礼拝:2017年4月30日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。」(ヨハネ21:13)
「 21:16 (イエスは)またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。・・・・わたしの羊を飼いなさい」。」(ヨハネ21:16)
 
満たされる者から満たす者へ」(ヨハネ21:1ー17)
1) 主イエスの復活後、ペテロらの弟子たちはガリラヤで漁に出かけた。一晩中の労も空しかったが、イエスは岸から船の右に網を降ろすように言われ、大漁の喜びを与えた。これはペテロらの弟子たちが召されたルカ5章をなぞるようであった。弟子に召され、そこに命がある(マタイ16:25)ことを知り、町々村々を行き巡り、会堂で教え、福音を宣べ伝え、あらゆるわずらいをいやすように遣わされてきた(マタイ9:35)が、イエスの死により、自らの裏切りによっても、その志は閉ざされたように思えていた。再び、その召命をなぞるように、大漁を与え、朝食を備え、復活の主は満たして下さることを示された。
2)弟子たちは心に痛手を負っていた。主に従うと言いつつ主を見捨てて逃げ出した。ペテロは3度も主を否んだ。自分の弱さに失望し、主の弟子として働きを担う力を失っていた。主イエスは、ペテロに、あなたは私を愛するかと3度問われ、3度わたしの羊を飼いなさい、養いなさいと、弟子の働きを託された。ペテロは、大見得を切って、誰よりもあなたを愛しますとは言えなかった。しかし、イエスが喚起して下さる愛の問いかけに応答しつつ、その召しに信仰を持って応答しつつ、立ち上がる力を与えられた。ペテロは他の弟子たちに先駆けて主イエスに従う人であったが、自分の力でそれを行う時に挫折せざるを得なかった。ペテロは弟子の代表として用いられたが、主の弟子の一人一人に主から与えられる召しがあり、約束の聖霊は一人一人に注がれた。
一人一人が、主の召しを妨げるものを悔い改め、豊かに満たして下さる主に弟子として応答したい。
 
 
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