説教の要約:2017年3月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2017年3月5日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』。」(マルコ2:17)
 
題「罪人を招き救う方」(マルコ2:13-17)
 取税人レビはイエスの招きにすべてを捨てて従った。
 取税人はユダヤ人を支配しているローマの手先となって、同胞から税を取り立てる仕事をし、権力を背景に不正な取り立ても行われることがあったよう。そのため、同胞から軽蔑され、憎まれる人々であった。
 パリサイ人は律法に従って忠実に生きようとする人々であり、ローマの支配下に選民の信仰心が弱る中で、その風潮に流されず、他と自分を区別し信仰を守ろうとした人々であり、取税人や罪人(神に背く人々、律法に従わない人々)を批判し、責めていた。
 主イエスは取税人や罪人が大勢いたレビの食卓に着いた。それを律法学者やパリサイ人たちは批判し責めた。主イエスは、「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためだ」と言われた。神から捨てられている、自分の努力で正しく歩むことの出来ない人々と共に食事し、交わりを持たれた。その中で、人々が赦しや慰めを受け、喜びや楽しみを受けたであろう。主イエスがおられる所にそれが生まれる。パリサイ人や律法学者らは、律法を行う義によって神の義の支配を実現しようとした。しかしそれは人の義に陥りやすい。それは神の御心から離れる。招かれた主イエスによって、その場が神に祝福され満たされた。主イエスをお迎えしたい。
 
 
 
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第二主日礼拝:2017年3月12日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「するとイエスは言われた、『婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。』」(マルコ2:19)
 
題「花婿が共にいる喜びを生きる」(マルコ2:18-22)
 パリサイ人やヨハネの弟子たちは断食をした。食事を粗末なものにして、自分に苦しみや忍耐を課す。自分の罪や自分の国の民の罪を嘆く、悲しむ。その嘆き、悲しみを抱きながら、神の救いの到来を待ち望む希望を新しくする。一方で、主イエスと弟子たちは、食事を楽しんでいた。どうしてあなたの弟子たちは断食しないかと、イエスに尋ねた。
 しかし、主イエスは花婿がいるのに婚宴の客は断食できるかと問い返された。旧約の預言者は花嫁であるイスラエルの花婿として神を顕した。主イエスは花婿としてご自身を暗黙に顕された。神がイエスを通して共に居られる。救いの御業を始め、行われている。喜びの時、悲しんでおられない。しかし、花婿が奪われる時が来る。その時には悲しむ。食事が喉を通らなくなるほどに悲しまないではおられない。それほどにこの世の罪が深く、汚れている。しかし、キリストの死と復活を通して、神の救いが成就し、神の国の喜びが実現する。喜びが支配する、イエス・キリストを通して、喜びの支配が始まっている。
 古い服に新しい布切れを継ぎ当てしない。破れが大きくなる。古い皮袋に新しいぶどう酒を入れると、皮袋が破れてぶどう酒が無駄になる。イエス・キリストが新約、新しい福音の時代、恵みの時代を始めておられる。この世を支配する罪の力やサタンの働きは大きく深刻で大きな悲しむべきものであるかもしれないが、しかし神はイエス・キリストを通して勝利される。私たちも悲しんで生きるのではなく、喜びの支配の中で、新しい皮袋に生きる者になりたい。
 
 
 
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第三主日礼拝:2017年3月19日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
また彼らに言われた、『安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである』。」(マルコ2:27,28)
 
題「安息日の主でおられる方」(マルコ2:23ー3:6)
 パリサイ人は、主イエスの弟子たちが、麦畑の穂を摘んで食べることがについて安息日を守っていないと非難した。仕事をしてはならなかったためであった。
 安息日は神が天地創造において、6日間働き7日目に休まれ、御業を完成されたことに由来する。そして人にも同様に7日目を休んで何の仕事もせずに、安息日とし聖とすることを命じた。
 空腹の者が穂を摘んで食べることは律法から許されていた(レビ19:10)。イエスは祭司アビメレクが、空腹のダビデに備えのパンを与えた出来事を挙げ(1サムエル21:1-6)、安息日は人のためにあり、主イエスは安息日の主であるとされた。
 会堂に手の萎えた人がおり、人々は安息日に主イエスが人を癒やされたら訴えようと注視していた。イエスはその人を中央に出て来て立たせた。身体の不自由を抱え、神からの祝福から堕ちたと考え、劣等感を抱え、片隅で虚ろに祝福の言葉を聞いていたかもしれない人であった。主イエスは人々の頑なさに怒りと悲しみを持たれたことだろう。「命」とはギリシャ語の<プシュケー>であり、「魂」を意味する言葉で、肉体の命だけでなく、人間に与えられている値打ちに根差すものである。安息日に善を行い、命を得させ、神の祝福と聖に与らせることは善いことだとされ、この人を癒やされた。
 
 
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第四主日礼拝:2017年3月26日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
3:13 さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。 3:14 そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、 3:15 また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(マルコ3:27,28)
 
題「病む世から選ばれ遣わされる」(マルコ3:13-19)
1)多くの人々が主イエスを押しつぶすほどに押しかけ、癒しや救いを求めて詰めかけた。そのため弟子たちに小舟を用意させた。
2)イエスは山で12人の弟子を選び立てた。「選ぶ」という言葉は、他の訳では「任命する」であり、使命を与えて、そのために人を作っていくことである。
3)弟子たちを御許に置かれ、権能を与えて、福音宣教に遣わされた。
 
 
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第五主日礼拝:2017年月日
 
説教者 加藤師
 
今週の聖句
 
 
 
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