説教の要約:2016年9月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2016年9月4日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。わたしは・・・・、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。・・・・それは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。(Tコリント15:1-11)
 
題「現れ共に働かれる復活の主」(Tコリント15:1-11)
1)福音の言葉はパウロ自身も受けたものである。受け、また次に受け渡していくもの。
2)@それはキリスト(王であり、祭司であり、預言者である油注がれた者、神の子である方、救い主。)が私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目の甦られたこと。それによって罪が赦され、永遠の命が与えられ、神の霊が注がれる者とされた。
Aそれは聖書に書いてある通りの出来事。旧約聖書に預言されたことであり、神の御心、ご計画であったこと。
3)復活の主が一人一人に現れて下さった。一人一人が主のご復活を体験し、喜んだ。(福音書、使徒行伝の復活後の出来事)。甦られたご自身を顕され、共に食事をし、生きていることを証明し、神の国のことを語られた。主イエスが捕らえられる前に、キリストと弟子たちの共同体に喜びの交わりがあり、キリストの宣教の働きがあり御業があった。甦りの主はそれを弟子たちに思い起こさせられた。
4)復活の主は、主との関係や交わり、主の弟子として愛の共同体を回復させ、それを目には見えない主イエス・聖霊が導く共同体、また宣教共同体としての使命に生きるように遣わされた。そのように主が共に働いて下さった。それは恵み。パウロはかつて熱心な迫害者であり、使徒に選ばれる値打ちのない者であったが、救い出され、主の働きに用いられ、多くの働きをなし、多くの人々の救いに用いられ、教会ができた。しかしそれは神の恵みとしか言えなかった。それは神の御業であり、恵みであった。
 私たちも主に贖われ、復活の主に生かされ、御国の望みに生かされている者である。
 
 
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第二主日礼拝:2016年9月11日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「また、もし彼が人の汚れに触れるならば、その人の汚れが、どのような汚れであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、とがを得る。(レビ5:3)
 
題「罪過のいけにえ」(レビ5:1−6:7) レビ記5章、6章
1)
@証言すべきでありながら証言を拒否した者の罪責、A儀式的に汚れたとされたすべての死体に気付かなくても、触れて汚れた者の罪責、B人の汚れに触れて気付かずに汚れ、後にそれを知った(知らされた)者の罪責、C良いことであれ悪いことであれ、軽率に誓って、気付かず、後に知った(知らされた)者の罪責。罪を告白した上で、この罪のためのいけにえを祭司を通して献げることによって罪責から自由にされる。罪の贖いがなされる。
2)貧しい者は、山鳩二羽か家鳩のひな二羽を献げる。一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえ。もっと貧しい者の場合には、十分の一エパ、一日分の小麦粉を罪のための献げものにすることが認められていた。どんな貧しい人であっても、罪の赦しを得ることができる。またどんな人も罪の赦しのためにはこのいけにえが必要である。
誤って罪を犯した者はこの贖いによって赦される。(民数15:24,26) 故意に犯す罪は赦されず、民から断たれる。(民数15:30)
3)新契約の時代、イエス・キリストは完全な贖いの小羊であり、また永遠の大祭司であり、きょうも天の真の聖所に仕えておられる。罪を清め、死んだわざを除き、喜びと感謝をもって主を礼拝する者へと導いて下さる。(ヘブル7:24−27,9:11−14)。
4)罪の償いの献げ物。
 
 
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第三主日礼拝:2016年9月18日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
御国がきますように」 (マタイ6:10)
 
題「御国が来ますように」(マタイ6:9〜13)
1)御国の中に生きるように
@「御国」と言うのは直訳すると「あなたの国」即ち「神の国」。そして「国」と言う言葉は「支配」と言い換ることができる。「御国」が来る、支配するとは私の今の様々な状況が改善され事柄が良い方向へ進むことと考えるのは誤りだ。私たちの住む今のこの現実の世界は、とても「御国」「神様の支配する国」ではないように思う。
Aイエスの到来         (マタイ4:17)
そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」
「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(同12:28) から、主イエスは神の支配・御国をこの世にもたらすために来られた。神の独り子なる主イエスが来られたことによって、神の支配は既に私たちのところまで来ている。故にこの祈りは、その神の国の中に私たちが主を崇めて信頼して生きることができるようにという祈りだ。そして「御国が来ますように」と祈る者は、御国が来るという前提で、御国に入る時のこと(再臨)を考えて、礼拝を守り、主を証しし、今を大切に生きるということである。
2)イエス・キリストによる支配
@神の国          
 神の支配の中に置かれている私たちになぜ、悩みや悲しみがあるのだろうか。自分の現実の中に神の国を見ることができない。このギャップはどういうことか。
これは、私たちが神の国をどのようにとらえているかによる。
 神はその独り子イエス・キリストの十字架における苦しみと死と復活によってご支配をされる。主イエスは、私たちの罪をすべて引き受けて十字架にかかられ、奇跡的な復活をとげられた。それによって主は、私たちの「生ける望み」なってくださった。確実な希望。その希望は自分だけのものではなく、家族の希望、友人の希望、私たちの周りの人々、日本いや世界中の人々の希望なのだ。主の十字架と復活によってもたらされている救いを受け取ることができるように、私たちは他の人々のために、
「主よあの人の所にも御国を来たらせて下さい」と祈らねばならない。
この祈りは、主イエスの十字架と密接な関係がある。
 
 
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第四主日礼拝:2016年9月25日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
9:22 アロンは民にむかって手をあげて、彼らを祝福し、罪祭、燔祭、酬恩祭をささげ終って降りた。9:23 モーセとアロンは会見の幕屋に入り、また出てきて民を祝福した。そして主の栄光はすべての民に現れ、9:24 主の前から火が出て、祭壇の上の燔祭と脂肪とを焼きつくした。民はみな、これを見て喜びよばわり、そしてひれ伏した。」 (レビ9:22-24)
 
題「祭司の働きと神の臨在」(レビ記8:ー9:)
祭司の任職 レビ記8章
モーセはアロンとその子らを主の前に立たせ、装束(7-9,13,30)、注ぎの油(10-12,30)、罪祭(罪のためのいけにえ)(14-17)、二頭の雄羊(18-29)、種入れないパンのかご(26,31)を用意し、全会衆を天幕の入り口に集め、「これは主が、するように命じられたことである」と宣言して任職を行った。6節以下。
(1)アロンと子らに装束を着けさせる
(2)罪祭(罪のためのいけにえ)の奉献 
(3)燔祭(全焼にいけにえ)の奉献
(4)任職のいけにえの奉献 
(5)任職式の期間
 七日間は昼も夜も天幕の入り口から外へ出てはならず、そこに止まらなければならなかった。この期間が終わるまで祭司職の執行はなされるべきではなかった。神と民との間の仲保者としての務めにつく者たちは、このようにして十分の聖別されなければならなかった。民の贖いと聖別の職につく祭司にとって、まず自らの贖いと聖別とが必要だったのである。
祭司職の開始 レビ記9章
 7日間にわたる任職のための儀式を終えたアロンとその子らは、モーセの指示によって、その務めを公的に開始する。
 まずモーセは、大祭司アロンに向かって、罪のためのいけにえとして若い牛を、全焼のいけにえとして雄羊をささげるように命じ、また、イスラエルの民を代表する長老たちに向かって、罪のためのいけにえとして雄やぎを、全焼のいけにえとして(一歳の)子牛と子羊を、和解のいけにえとして雄牛と雄羊と穀物のささげ物とをささげるように命じた(1-5)。
 彼らは、それぞれのささげ物を天幕の前に持ってきた。その時全会衆もそこに立っていた。モーセは彼らに、「これは、あなた方が行うように主が命じられたことである。こうして主の栄光があなた方に現れるためである。」と告げた(6)。主の栄光が現れるとは、主ご自身が祭司職によるいけにえ奉献に基づく贖いを受け入れて下さる確証のためのしるしを意味していた(23,24)。
 モーセのことばに従って(7)、アロンは、彼自身のためと民のためのいけにえを奉献する。
(1)アロンとその子らのためのささげ物
(2)民のためのささげ物(15-21)
(1)罪のためのいけにえ(雄やぎ)
(2)全焼のいけにえ(仔牛と子羊)
(3)穀物のささげ物(油を混ぜた穀物)
そのうちから手のひら一杯分を祭壇の上で焼く。
(4)和解のいけにえ(雄牛と雄羊)
(e)アロンは、初めて民に向かって両手を上げて祝福して、3つのいけにえをささげて下りて来る。
(f)モーセと共に初めてアロンは会見の天幕に入り、出て来て民を祝福した。
このとによって、アロンの祭司機能が正当なものとして民に確証された。その時、モーセが先に語っていた通りに、「主の栄光が民全体に現れ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民は皆、これを見て、叫び、ひれ伏した」(23,24)。このことは、モーセとアロンが主のことばの通りに行ったすべてに対して、主が受け入れられたという証印を民に示されたことを意味する。
  新聖書講解 レビ記・民数記 山崎順治著
 
 
 
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第主日礼拝:2016年8月28日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
 
 
 
 
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