説教の要約:2016年6月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2016年6月5日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、『よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである』(マルコ12:43,44)
 
題「主に喜ばれた貧しいやもめ」(マルコ12:41-44)
 主イエスは、多くの金持ちたちがたくさんの金をさいせん箱に投げ入れている中で、レプタ2枚を投げ入れた貧しいやもめの献げものを喜ばれた。レプタ銅貨は当時の最も少額の貨幣であり、当時の一回の入浴料に相当するそうである。(今での数百円ぐらいか。)しかし主イエスは弟子たちを呼び寄せ、「あの貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた。他の人はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人は、あらゆる持ち物、その生活費の全部を投げ入れたから」と言われ、それを非常に喜び、模範として示されたのだろう。
 主イエスは受難週の初めの日に、エルサレムに入城し、神殿に入って本当の祈りがないことを宮清めを通して明らかにされた。神殿で主イエスは人々に日々教えたところ、民の指導者たち(祭司長、律法学者、パリサイ人、民の長老たち)は議論をもって主イエスを陥れようとし、殺意を募らせていくが、主イエスは神殿で真の礼拝が捧げられていない状況に嘆き心を痛めておられたことであろう。
 38-40節に、主イエスは「律法学者たちに気をつけなさい」と注意を促している。
 その状況の中で、この貧しいやもめは、自分の持ち物、生活費のすべてを献げて、神を礼拝した。主イエスは、神の恵みを喜び、すべてが神から与えられたことを喜び、また神にお返していくやもめの信仰の献げものを誰よりも多く献げたと喜ばれたのではないか。山上の説教で語られる、心の貧しさに生き、神の恵みに精一杯応答したやもめの真実な礼拝を主イエスは喜ばれた。
 
 
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第二主日礼拝:2016年6月12日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。(マタイ26:26-28)
 
題「主の食卓にあずかる」(マタイ26:26-30)
 主イエスは捕らえられる前、弟子たちと過ぎ越の食事をされた。そこで、最初の聖餐を司式され、これからも、キリストを記念して行いなさいと言われた。パンを割き、皆で分け合い、これはわたしのからだだと言われた。またぶどう酒の入った杯を渡して、飲みなさい、多くの人の罪の赦しのために流すわたしの契約の血だと言われた。
パウロは、Tコリント11:23-29に、福音書より古い歴史的記録として伝えている。感謝して共にパンを裂き、ぶどう酒を飲む、主のみことば、お約束、みわざを記念して、祈り、聖餐を分け合う時に、主がそこにおられる。キリストの弟子たちの交わりの中に、主ご自身が霊においておいで下さる。旧約の動物によるのではない、神の御子、汚れのない神の御子が尊い贖いの小羊となって、流された契約の血によって罪が赦される、「新しい契約」が取り交わされたことを約束して下さった。主イエスは「多くの人の罪の赦しのために」と言われた。すべてがこの血によって赦され、清められる。「飲むたびに」、「記念として」:神の前に裁かれなければならない私たちの罪や汚れを自分でどうしようもないが、キリストの血によって清めて下さる。清めて下さった。その事を記念する。そのことを信じ、仲間と共に、主の喜びの食卓を囲む。
 主は命のパンとしてご自身を顕された。キリストのからだを食べ、血を飲む者は永遠に生きるとも言われた。(ヨハネ6:53-58、35-51)。
 主を礼拝し、命のパンを食し、喜び・祝福の聖餐にあずかり続けたい。
 
 
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第三主日礼拝(父の日):2016年6月19日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。(ヨハネ13:14)
 
 
題「互いに足を洗い合いなさい」(ヨハネ13:1ー20)
最後の晩餐の出来事
13章 食事の時の出来事
14−16章 主イエスの弟子たちへの最後の説教
17章 主イエスの弟子たちを執り成す祈り(大祭司の祈り)
 最後まで弟子たちを愛し通された。その中には主イエスを裏切ったユダも含まれていた。
 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰に巻き、水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいで拭かれた。ペテロは足を洗わないで、と言った。主イエスは、「わたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもなくなる」と言われた。これは主イエスに足を洗っていただくしかない事を示す。足は汚れている所。身体の上の部分はすでに洗っているからきれいだが、しかし、その所まで歩いてきた足は、その汚れを帯びているから、それは洗われなければならない。だがすべての者がきれいなわけではないとは、裏切る者があることを指して言われた。2節に、悪魔は、すでにユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた、とある。
 足を洗うことは、奴隷のする仕事。しかも、ユダヤ人の奴隷はしなかった、異邦人の奴隷、最も下の者がしたこと。だからこそ、主であり教師である主イエスに、ペテロはしていただくわけにはいかないと思ったであろう。しかし主イエスは、師であり、主であるわたしは手本を示したから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきだと言われた。
 主イエスが主人であり、遣わす者である。弟子たちはイエスを主と告白する方、あるいは師と仰ぐ方であるから、この人に聴き従うべき方である。主であり師である主イエスがその事を教え見本を示された。「13:17 もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。
 主イエスは、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(13:34)と言われた。主イエスは弟子たちに、僕のように仕え合い、汚れた部分をも洗い合う交わりや関係をもって愛し合うことを求められた。 
 主イエスが、弟子たちの、人々の、心の足の汚れを洗い清めて下さった。主イエスでなければ洗い清めることはできない。そのためにイエスが十字架に架かられ、その罪咎を負うて下さった、その流された血によって、命によって、私たちの罪が、汚れが清められる。また、弟子同士が自分の足の汚れを知り、相手の足の汚れを知り、手で相手の足を洗うことにより、また自分の足を差し出して、洗ってもらうことにより、足がきれいになる。汚れを取り除き合い、足をきれいにし合わなければならない。この共同体に、この働きに生かしていただきたい。
 
 
 
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第四主日礼拝:2016年6月26日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください』。(マルコ14:36)
 
題「父よ、わたしの思いではなく、御心がなりますように」(マルコ14:32ー42)
1)主イエスは弟子たちと共にゲツセマネに行き、目を覚まして祈るように求めた。3人の弟子を特に近い所に置き、目を覚まして祈ることを求めた。主イエスはいつもは一人で祈っておられたが、この時は弟子たちを伴われた。
2)「悲しみのあまり、死ぬほどだ」と苦しみ、悲しみを顕した。また、この時が早く過ぎ去らせて下さるように祈り求めた。悲しみ、苦しみ、悩みがいかに激しく、厳しく、極限に達しているかを感じさせる。
3)人に裁かれ、ののしり鞭打たれ、十字架刑で殺される、肉体的苦痛も厳しいものであろう。が、それにも増して、父なる神をよく知り、神がいかに罪を嫌悪し厳しく裁かれるか、常に父なる神と共におられた方が、罪人として捨てられ、裁かれなければならないことがいかに恐ろしく悲しむべきことであるかを知る者は主イエスだけであろう。
4)ペテロは、たとい主と一緒に殺されることになっても知らないなどとは言いませんと言い、他の弟子たちも同じようなことを言ったが、結局はイエスを裏切ってイエスを否み、またイエスが捕らえられる時には、皆逃げてしまった。また弟子たちはこのゲツセマネでも、目を覚ましていることができず、眠ってしまい、主イエスと共に祈り続けることはできなかった。自分の現状が分かっていない者である。
5)主イエスは、自分の思いではなく、父なる神のみ思いに従い通された。それによって私たちの救いが成就された。
6)主イエスの十字架と復活、昇天、聖霊降臨によって聖霊が注がれ、聖霊の助けを受ける者とされている。主イエスのみ思いを知り、おこなっていく者としていただこう。
 
 
 
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第主日礼拝:2016年月日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
 
 
 
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