説教の要約:2016年3月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2016年3月6日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」(マタイ16:18)
 
題「黄泉に打ち勝つ共同体を建てる主」(マタイ16:13ー20)
 主イエスの「あなたはわたしを誰と言うか。」という問いに、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えた。これは、ペテロの前に立っている、ベツレヘム出身の、ナザレ村の大工の子として育ったイエスという人が、救い主、神の子である、キリストである、自分たちを救うためにおいで下さった、今生きておられる方だという告白である。選民であるイスラエルの人々は、キリスト、油注がれた者、王、祭司、預言者である者、終わりの時になってこの三職を兼ね備えた救い主・神の子を神は送って下さると待望していた。ペテロは、あなたはそのキリストだと、告白した。
 それに対して主イエスは、「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」と言われた。「あなたはペテロ、ペトラ、岩と呼ばれる男、その岩の上にわたしの教会を建てる」、その正しい信仰告白を喜ばれた。イエスを神の子、救い主と呼ぶ信仰告白の上に「わたしの教会を建てる」と言われ、またその同じ信仰告白する者が教会であるとされた。(プロテスタント教会の理解) ナザレのイエスを生ける神の子、救い主と呼ぶ信仰を言い表す人間が集まっているのが教会である。教会という言葉は、エクレシア、(ギ)エカレオーという動詞、呼ぶ、招集する、が語源で、召された聖なる者を顕す。黄泉の力と訳されている言葉は黄泉の門が原語の言葉。黄泉は死者の行く所。死の門が閉じられると、死によって愛する者との関係が断たれ裂かれてしまう、また死の門が突然開いて恐ろしい死や闇の力が飛び出してきて、死の世界に引き込むと、人はそれをどうすることもできない、そういう黄泉の力が働いてくる。しかし、主イエスが建てられる教会は、その黄泉の力に打ち勝つものであると主イエスは約束された。
 主イエスはペテロに、天国の門の鍵を授け、「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」と言われた。この「つなぐ」「解く」という言葉は、律法学者たちが人々の生活の教えの上でして良いこと、すると罰せられることを教えた言葉である。ペテロが赦したち禁じたりすることが天でも有効である、イエスを神の子と告白する人が造る共同体に、神は聖霊によって解きつなぐ権威を与えて下さる。別の見方をすると、神に裁かれるべき罪が人を永遠の死に定め引き込むが、主イエスが建てられる教会はその死や滅びから人を救い出し、命を与える働きに遣わされている。
 
 
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第二主日礼拝:2016年3月13日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。』」(マタイ16:24,25)
 
題「まことの命を得る道」(マタイ16:13ー26)
1)主イエスが弟子たちに示されたメシヤ像は、指導者たちから多くの苦しみを受け、殺され、3日目に甦らされることを通して、救いを成し遂げる姿であった。
2)しかし弟子たちや当時のユダヤ人たちが持っていたメシヤ像は、ローマ人をパレスチナから追放して、イスラエルを強国にする征服者、武勇の王であった。ペテロはイエスを諫めようとした。
3)イエスはペテロをに向かって、「サタンよ、引きさがれ、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責された。ペテロのおるべき位置はイエスの後ろであって、前ではなかった。イエスはペテロをみもとから追放したのではなく、イエスの後に従う者の位置に戻るように教えられた。
4)イエスは、「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われた。そのイエスに従うことは自分を捨てること、自己否定を求められる。そして自分の十字架を負うこと。
5)「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」
 人は全世界を儲けようと奔走する。そういう能力や財力がない者でも、何とか少しでもより豊かに、物質的に、精神的に富もうと努力するだろう。その時、自分と他者との利害をめぐって不一致、争い、奪い合いを避けられない人の性質がある。肉的性質や罪性がある。そうして、自分の命を大切にし、人をもそれなりに豊かにしているのではないかと思える道は、キリストの示す道ではなく、神が示されるまことの命を失っている歩みである。キリストはそういう神の国を受け継ぐことができないもの、自分で変えられないもののために死んで甦り、天に属する性質、徳性を私たちに与えて下さる。自分を捨て、自分の十字架を負うて、キリストに従う歩みがまことの命に至る道である。
 神は私たちに、全世界に勝る命を見ておられる。イエス・キリストに似た者とされ、御国に生かされる命である。父子聖霊の神が互いに愛し合い、一つでおられる命、その命にキリストを通してイエスを信じる一人一人が与り、愛し合う関係が造られる、そこに神の命がある。
 
 
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第三主日礼拝:2016年3月20日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒 にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)
 
題「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:32〜43)
1)届いている神の恵み
 彼らは救い主のすぐ側にいた。不運、災いとしか思えないような結末であっても、彼らはメシア(世界の救い主)と共にいた。それは彼らが人生の最期に救い主のもとに辿り着いたということだ。この二人の犯罪人にも神の恵みは届いていた。
2)神を恐れないのか
 恵みは届いている。人は恵みにあずかることもできるが、もう一方において、与えられた恵みを無駄にしてしまうこともあり得る。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(2コリント6:1)。
それはここに描かれている二人の罪人の姿にも良く現れている。犯罪人の一人は、十字架の苦しみから解放できないキリストをののしり(39節)、もう一人はたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、 同じ刑罰を受けているのに」(40節)確かに今は人間の裁きによって十字架にかけられている。しかし、人間の裁きが最終的な裁きなのではない。本当に人生を問われるのは、神の御前においてなのだ。その重要なことに気づいた。
3)わたしを思い出してください 
 まさに罪人として人生を終えなければならない彼ら、しかしそこに十字架にかけられたイエス様がおられた。彼らは犯罪人として逮捕され、処刑されるという一連のことを通して、イエス様のすぐ側に導かれていた。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)
「あなたの御国」とは「あなたの王国」で、主が王となられ裁かれることを示している。しかしイエスという王は、その裁きを行う権威をもって、赦しを宣言してくださるに違いない。私の人生そのものに赦しを与えてくださる御方だと信じた。
 その時、イエス様の口から答えを聞いた。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」これは完全な罪の赦しの宣言に他ならない。彼はもはや罪人として死んでいく必要はなくなった。地上において、まだ十字架の上でもがき苦しんでいるときに、罪の赦しの言葉を前もって聞くことができたのだから。
 この同じ恵みが、私たちにも確かに届いていることを感謝しよう。彼がイエス様の側に《近づけさせられた》のは人生最期の日だった。私たちは、人生最期の日ではなくて、その前に既にイエス様のもとにいる。ここに連れて来られている。それが恵みであり恵み以外の何ものでもないことを覚え、神様に感謝しよう。その恵みを私たちは決して無駄にしてはならない。
 
 
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十字架記念礼拝:2016年3月25日
 
説教者 加藤信治師
 
聖句
「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19:30、新共同訳)
 
題「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)
 主イエスは、「成し遂げられた」と言われて息を引き取られた。この言葉は、口語訳では「すべてが終った」と訳されている。人間は死ぬ時、死んでしまえば何もかも終わりだ。そういう意味で、「すべてが終わりだ」と思い、その言葉をもって死を迎えるかもしれない。しかし主イエスの言葉はそれではない。
1)メシヤの救いの働きを成就して下さった。 主イエスはゲツセマネに向かって行かれた。できればこの杯を取りのけて下さいと祈られた。しかし、そうしなければならないのでしたら神の御心が成るようにと祈られた。キリストは神の御心を成すために来られた方である。新約聖書の中には、何度も、「聖書の言葉が成就するため」「預言の言葉が成就するため」という言葉が出てくる。世の終わりに、救いを完成するために、メシヤが来られる。それがどうして分かるか。旧約聖書に預言されていることを成就される方としてメシヤ、キリストが来られる。敵が衣服をくじ引きにした(ヨハネ19:24,詩篇22:18)。食事を共にしている者が裏切る(ヨハネ13:18,詩篇41:9)。渇く(ヨハネ19:28、詩篇69:21)、銀貨30枚で売られる(ゼカリヤ11:13)、苦難の僕が病を負う、人々に捨てられる、罪咎を負う(イザヤ53:)等、そのメシヤが果たすべき、神の救いを成就するための為すべきことが成就された、完成した、完了した、成し遂げた、すべて終わったと言われたのである。
2)死をもって、贖いの供え物としてご自身を捧げ尽くされた。(ヨハネ17:17-19)。大祭司の祈り。弟子たちが真理によって献げられた者となるために、ご自身を献げ尽くされた。死と黄泉にまで渡された。非常な厳しい状況に追いやられることがあっても、キリストが、死と罪の呪いの中を通って勝利し、私たちを聖なる者として下さる、そこに立つことができる。
3)エレミヤは北イスラエルがアッシリヤに敗北して捕囚に遭い、100年程後に立って、南ユダに預言した。偶像崇拝や指導者や宗教家たちの腐敗に対して、罪の告発し悔い改めを迫り、やがてバビロンに降伏を勧めたり、敗北を宣言しなければならなかったため、人々から苦しみを受け、命の危険にさらされながらも預言した。人の心がいかに病んでいて、どうしようもないか(17:9)を身を持って知っていた預言者であろう。、しかし、17章の預言、主に信頼する人の祝福、31章(31:31-34)の新しい契約、イスラエルとユダの回復、心の内に新しい霊を授ける約束を語った。イエス・キリストは死んで甦られ、天から聖霊を注ぎ満たして、この約束を成就する方としておいで下さった。主イエスの十字架上の言葉は、その成就を宣言する言葉である。
 
 
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第四主日礼拝:2016年3月27日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。(マルコ16:6)
 
題「イエスは甦ってここにはおられない」(マルコ16:1〜8)
1)主イエスの復活の知らせを最初に受けたのは女たちであった。女性は数に数えられない社会習慣にあったが、主イエスは女を用いられた。安息日は土曜日の夕方から明けた。夜のうちに香料を買いに行ったのだろう。甦りの朝、墓に最初に言ったのは女たちであった。十字架に架かられたイエスのお姿を見続けていたのは女たちであった。男たちは逃げてしまっていたのだろう。マルコ15:41。女性たちがイエスや弟子たちの身の回りの世話をしていた。食事、洗濯、身の回りの世話、身体を洗ったり、拭いたりなどもしていたかもしれない。主イエスの身体が墓に葬られるのを最期まで見届けていたのは女性たちであった。主イエスが死んでしまったけれども、身体に香油を塗って清めてあげないといけない。それはいつもしていたことかもしれない。
2)墓が近くなると、「そういえば、大きな石でふさがれていた。あれをどうやって動かそう」。しかし行ってみると、石が転がされていた。復活の主イエスにお会いしに行こうとする時、それを妨げる大きな石がある。しかし、主を求めて信じ備えて出かけていく時、石を転がして甦っておられる主にお会いする。私たちの生活においても、復活の主とお出会いするのを妨げている石を転がしていただこう。
3)そして白い衣を着た若者が、「イエスは甦られて、ここにはおられない」と言う。主イエスは死を打ち破られ、甦られた。死は滅び、罪、悪の力である。しかしキリストはそれに打ち勝ち、復活の命を持っておられる方である。私たちの内に罪の力や闇に打ち勝つ力や命はない。天におられる主イエスから遣わされる御霊によって生きる者としていただきたい。
4)そして、弟子たちに「先にガリラヤに行く。そこであなた方に会える」と告げるように言われた。ガリラヤで復活の主イエスは弟子たちに現れ、弟子たちを建て上げ遣わされる。ペテロはもう一度新たに召され、主イエスに従い抜く者とされていく。
 
 
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第主日礼拝:2016年月日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
 
 
 
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