説教の要約:2016年1月
 
今年の御言葉
 
☆「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。」(ヨハネ黙示録2:4、5)
 
☆「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネ黙示録3:20)
 
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元旦礼拝:2016年1月1日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。」(ヨハネ黙示録1:3)
 
題「御座にいます主を仰ぎ見つつ」(ヨハネ黙1:1-20)
☆この教会は、小グループで主にある親しい交わりを作りたいと願っています。
 伝統的な体質から、生きた信仰へ。祭儀を伝統的に守っている体質から、みことばと祈りの信仰生活へ、生きた交わりの生活へ、人を建て上げる。生かす働きへ。
 信仰告白(マタイ16:16)、キリストの教会(16:18)、新しい契約(ルカ22:20)。
☆二つの使命:@互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34,35)、教会共同体の形成。聖霊降臨の約束(ヨハネ14-16章)、使徒行伝2章、共同体を造る霊の賜物。1コリント12-14章、教会・キリストの体(1コリント12章、ローマ12章、エペソ4章)、御霊の実(ガラテヤ5:21,22)。 A大弟子化命令。弟子とする。バプテスマを授ける。命じておいたことを守るように教える。
☆飲むにも食べるにも神の栄光を顕す。(1コリント10:)
あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって天の父は栄光をお受けになる。(ヨハネ15:8)
 ヨハネ黙示録は今の時代から後の時代に何が起こってくるか、について描かれている預言の書です。今、天の御座に父子聖霊の神がおられます。(ヨハネ黙1:4-6)。この方は地上のすべての教会を行き巡り、教会を導き、祝福し、裁かれ、栄光の姿に変えようと働かれます。(1:13-16)。この方は私たちをサタンの支配から神の支配へ取り戻し、御国を受け継ぐことができるようにして下さる方です。(1:17-18)。
 
 
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第一主日聖餐式礼拝:2016年1月3日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。」(ヨハネ黙示録2:4,5)
 
題「悔い改めて初めの愛に帰りなさい」(エペソ2:1-7)
1)エペソはアジア州の中では最も重要で、最大の都市であった。交通の要衝であり、宗教の盛んな都市でもあった。アルテミスの神殿があり、商売の神、生産の神であり、宗教的売春が行われていた。
2)キリストは燭台の間を行き巡り、地上の全教会を見守っておられ、教会の頭の権威を持って語られる。エペソの教会は行いと労苦と忍耐について賞賛されている。忍耐は一般的に消極的と受け取られ易いが、これは苦難や迫害をも喜んで受け、それを恵みと栄光に変えてしまう積極的、行動的態度である。エペソ教会はさらに偽りの教えを見抜いた点でも優れていた。パウロは、「狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて」(使徒20:19)と警告した。エペソの教会の人々は彼らを試し、偽りを見抜いた。私たちも聖書の真理が正しく教えられているかをためし偽りを見抜く洞察が求められる。
3)教会の頭であられる方は、責めるべき点として、初めの愛から離れてしまったことを示し、悔い改め、初めのわざを行うことを求めた。異端的な教えを見抜くために神学的な問題に関心を注いだあまりに神に対する霊的熱心や兄弟姉妹への愛が冷えていったのかもしれない。最初に信じた時の愛に立ち帰るように求めておられる。
4)そのためには悔い改めが必要。放蕩息子は父の許に立ち帰った。今まで自分が行っていることをきっぱりやめて方向転換し、神の方に向かう、初めの行いをする。〔参照 エレミヤ2:2、「若い時の純情、花嫁の愛、荒野なる、種蒔かぬ地で、わたしに従ったことを覚えている」〕悔い改めは非常に積極的な行為。悔い改めないなら、教会はもはや世の光としての機能を果たし得ない。
ニコラオ宗は世俗主義である。使徒行伝6章に6人の執事が選ばれているが、この一人であったニコラオが、後に無律法主義の教えを展開した。イエスが来て救いを完成されたから、あれはいけない、これはいけないと言う必要はない、と。しかしエペソの教会は、その異端を受け入れなかった。〔どんな罪もキリストの贖いによって赦されるという点では一面正しいが、しかし、聖書の教えとは異なる。救われて、恵みを感謝し、キリストの弟子として、キリストに従って生きる、キリストの愛によって互いに愛し合う。キリストから委ねられた福音宣教に(主の証者として)生きる。〕
5)勝利を得る者には、命の木の実を取って食べることが許される。キリストが勝利者である。
 
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第二主日礼拝:2016年1月10日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。 だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネ黙示録3:20)
 
題「主を食卓にお招きできる幸い」(ヨハネ黙3:14-22)
1)アーメンたる者。忠実、まことの証人:アァメンとは「真実な」の意。私たちの真実、忠実は完全ではないが、イエスは真実な方である。イエスは神の救いの約束や契約を真実に成就し、真実に全うして下さる方。信仰とは、神の真実を当てにすること。
2)御座にいますイエスは愛する者を叱ったり懲らしめたりし、教会をふさわしい者に整えられる。ヘブル12:5-12。神が愛する者を真の子として訓練される。訓練は悲しみにも思うが、平安な義の実を結ばせる。イエスは弟子たちを遣わして訓練された。
3)「3:20」。私たちの心の扉を主が叩いておられ、主の御声を聞いて開けるなら、入って食を共にされる。同じ釜の飯にあずかり、親しい交わりを持って下さる。主は無理強いをしないで、自主的であることを求めておられる。
4)ラオデキヤの教会を、生ぬるいから吐き出そうと言っておられる。迫害や偶像崇拝、不品行もなかった。平和と繁栄のゆえに自己満足に陥り、生ぬるい信仰になってしまっていた。積極的な服従も奉仕もせず、無関心と不徹底な信仰生活は主に喜ばれない。パウロはキリスト教に対して初めは冷たかったが、主イエスに出会って燃やされ、熱心な信仰者となった。
5)「火で精錬された金を買いなさい」(18):1ペテロ1:6。信仰がためされ、金より尊いものとされ、主の再臨の時、賛美と栄光と誉れに変わる。
6)「白い衣を買いなさい」(18):ヨハネ黙3:4、4:4,7:9。6:11。7:13。白い衣は小羊の血によって衣を白くした人に与えられるもの。
7)「見えるようになるため、・・・目薬を買いなさい」(18):エペソ1:17-19。「栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなた方に賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように。」
 
 
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第三主日礼拝:2016年1月17日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。」(ローマ5:2)
 
題「望みをもって神を喜ぶ」(ヨハネ黙3:14-22)
1)アブラハムは行いによってではなく、信仰によって義とされた(ローマ4:2)。律法によるのではなく、信仰の義による(13)。信仰により、恵みによる(16)。死人を生かす神を信じ、義とされた(17)。主イエスが私たちの罪過のために死に、義とされるために甦らされたことを信じる私たちも義とされる。
2)イエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、神に対して平和を得ている。神の栄光(天地創造、神の民の救出、奇跡、繁栄、・・・)にあずかる望みに生きることができる。様々な問題や困難に直面しても、父である神がイエス・キリストを通して脱出させ、さらに善きものを与えて下さる。錬達を新改訳では練られた品性と訳している。試練や困難を通して、自分の未熟さ、人間の小ささ、孤独、無力や限界を知る(力や知恵がない、思い通りには行かない・・・)、善きものに与ることを妨げる人間の愚かさ、肉性、悪の力、病(体、心、霊)、死を知る。また共に生きる者と互いに愛し合い、建て上げ合いつつ共に立つことの大切さを知る。そのためにも、練られた品性を必要とする。神は愛する者に神の徳性や善いものを与えて下さる。(御霊の実、他)。
3)キリストは私たちが罪人で敵であった時にすでに私たちのためにご自身を捧げ、愛し救いの道を備えてくださった。私たちを義とし、神と和解させて下さった。その恵みにあずかっているから、行いによってではなく、恵みにより信仰によって、さらに神に近づかせていただくことができる。
4)喜びは原動力となる。私たちは何を喜び、どこから喜びを得るか。主イエスによって、神を喜ぶことができる。善きものを備え、導かれる神を喜ぼう。
 
 
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第四主日礼拝:2016年1月24日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがた をゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。」(使徒行伝20:25-35)
 
題「御言葉によって御国を受け継ごう」(使徒行伝20:25-35)
 使徒パウロは第3次伝道旅行の終わりにおいて、船旅の途中、港にエペソの長老たちを呼び寄せて、告別の御言葉を語った。3年の間、涙をもって教え諭したことに生きるように勧めた。
1)パウロは神の恵みの福音を証しする任務に命をかけてきた。信徒、長老たちの間を歩き回って、御国を宣べ伝えた。御国:神の支配。〔まず神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33)〕
2)神の教会は、神の御子がご自身の血によって贖い取られたものである。聖霊はその群れに監督者を立てて牧させる。聖霊の御業である。信仰者は、和解の使者として立てられている(2コリント5:19)。天の聖所に仕える大祭司イエス・キリストは、「わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかた」(ヨハネ黙1:5,6)であり、私たちを祭司として遣わしておられる。
3)パウロが去った後、狂暴な狼が群れを荒らし、また違った教えに引き込もうとする者が現れてくるから、目をさましていなさいと長老たちに懇願した。ヨハネ黙示録2:4-6で、天の聖所におられる主イエスが、初めの愛に立ち帰らなければ、燭台を取りのけると言っておられる。ニコライ宗の教えやわざを警戒し憎むように勧めている。これは世俗主義である。イエスが来て救いを完成したから、"しなければならない"に束縛されなくていい、世のものを楽しもう、という考え。しかしそうではなく、主イエスは信仰により恵みによって、聖霊の御業によって律法を完成するためにおいで下さった(エペソ2:8、ローマ7,8章、ガラテヤ5:16-)。
4)パウロは、主と恵みの御言葉に教会を委ねた。御言葉には、弟子たちを育成し(新改訳)、造り上げ(新共同)、信仰を強め(LB)、御国を継がせる、恵みを受け継がせる、相続財産を得させる力がある。
5)主イエスは「受けるよりも与える方がさいわい」と語り実践された。主イエスに従う者は御言葉に聴き、行う者たちである。御言葉を読み、黙想し、聖霊によって解き開かれ、今の私の生活の中でいかに実践すべきかを教えていただき、御言葉を行う、そのように生きる者としていただきたい。またそれを教会共同体の中で分かち合い、祈り合いたい。
 
 
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第五主日礼拝:2016年1月31日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
信仰も、・・・行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」(ヤコブ2:17)
 
信仰に全てをかけて」(ヨシュア記2:1〜24)
 ラハブの信仰は、私たちが知識だけの信仰者にならないよう警告している。
1)信仰の言葉と行動
 ヨシュアを先頭にイスラエル民族は、約束の地に向かって、最初の町であるエリコ攻略のため二人の偵察隊を送った。エリコの住民のラハブは、偵察隊を匿(かくま)い、家族を含める身の安全の約束を取り付け助けた。なぜ、彼女は敵のスパイを命の危険を犯してまで助けたのか。それはラハブの信仰心による。
 彼女はイスラエルの神の名前、「」を知っていた。(v9、10、11、12)。そして彼女は、「」が彼女の住んでいる地をイスラエルに与えられ、これまで主がイスラエルのために戦われたことを知っており、11節後半部には、主こそ真の神、唯一の神、そして天地の全てを支配なさっている方であることを告白している。興味深い事に、彼女の告白は、モーセが先に言った事と同じ。(申命記4:39、P252。彼女は誰からも教えられたことはないが、神様の行っている大いなるわざを見て、その結論に達したのだ。もし彼女の言葉がそこで終わっていたなら、それは事実を言っただけで、彼女の命を救うことにはならなかったであろう。彼女の信仰は、言葉だけではなく、その事実の故に危険を犯してまでも、自分の命を賭けた事に現れている。(v12〜16)
2)信仰は言葉でなく、最終的に行いに見られる。
 ヤコブ書2章14節以降(口語訳P362)で、ヤコブは行いのない信仰は死んだもの。役に立たないもの。信仰は目に見ることはできない。見える何かが必要で、それが行いだと言っている。
 ラハブは異邦人文化の中に生まれ、どうして遊女になったか私達は知らない。しかし、そのような暗い背景、状況の中で、神様は彼女の中に信仰のかすかな炎を見た。そして神様はそれに息を吹きかけ、もっと燃え上がるような機会を与えられた。彼女はその機会を捕らえ、完全に信頼できる「主」なる神に全てをかけたのである。
 神様は彼女に報いられた。身の安全が確保され(ヨシュア記6:22〜23)、イスラエルの選びの民の中に加えられた(同v25)。さらに大きな祝福としてダビデ王の家系、私達の救い主であるメシアの家系に加えられた。(マタイ1:5)
 信仰は変化をもたらす。行いや主義、進路方向、人間関係そして生き方を変える。私たちは神を知る事においてラハブよりはるかに恵まれている。
私達が信じている、と言葉で言っている事を本当に信じるなら、行動を伴う。行動の伴う信仰は、神の時にその栄光を拝する事ができる。
 
 
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