説教の要約:2015年3月
 
--------------------------------------------------------------------------------
 
第一主日聖餐式礼拝:2015年3月1日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。」(マタイ3:16)
 
題「主イエスのバプテスマ」(マタイ3:1-17)
1)バプテスマのヨハネは荒野で質素な生活し、悔い改めのバプテスマを授けた。ユダヤ人は本来は神に選ばれた民であったから、洗礼を必要ないと考えていた人々であったが、ヨハネに悔い改めを迫られ、人々がバプテスマを求めてやってきた。
2)ヨハネはメシヤの道備えをする使命を持つ者であり、人々に悔い改めを迫ったが、自分にはメシヤの靴のひもを解く値打ちもないと考えていた。イエスを聖霊と火でバプテスマを施す方だと紹介した。
3)ヨハネはイエスに出会い、イエスに対して自分こそあなたから洗礼を受けなければならない者だと告白した。しかし主イエスは、今は自分が受けることが正しいことだと言われ、受けられた。イエスは洗礼を受けなければならない罪・汚れは持っておられなかったが、罪人の身代わりに罪を負うて死んで甦られる方として、罪人の中に混じって洗礼を受けられた。それが神の前に正しいことであった。
4)天から聖霊が鳩のように下って主イエスの留まった。そして、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」の声があった。「これはわたしの愛する子」は詩篇2:7の引用であり、王の即位や記念行事に用いられたもの。また「わたしの心にかなう者」は、イザヤ42:1に語られる主のしもべについての言葉であり、天の父なる神が、イエスをメシヤの働きに聖霊を注いで遣わされたことを表す。この主の僕は罪人を叱咤激励して悔い改めさせる方ではなく、弱さを負う者を救う者として来られた。(イザヤ42:)
5)主イエスは十字架の死を飲むべきバプテスマと言われ(ルカ12:50、マルコ10:38)、それに続く死と甦り、聖霊のバプテスマにより、人々の救う働きを推し進められた。
 
 
 
--------------------------------------------------------------------------------
 
第二主日礼拝:2015年3月8日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)
 
題「完全を目指して成長する」(マタイ5:43-48)
キリスト者が求める完全。神の国の目標、キリスト者存在の理想、キリスト者としての聖潔の完成に関わる教え。
1)神は悪い者の上にも太陽を上らせ、雨を降らせる。神はすべての者を愛し、恵みを与える。私たちは天の父に属する者だから、神の子として父に似る者とさせていただきたい。
2)しかしそれは行いにおいて過ちのない完全ではない。私たちは実生活において様々な行き届かない領域や傾向を持つ。また、してはならない罪は犯さなくなったとしても、為すべきことを怠る罪を犯す者であり、なお、「役に立たない僕」である。
3)私たちはキリストにおいて、罪が赦され、神の子とされている者である。神を愛する。父なる神と子なる神は一つである。キリストに繋がって、弟子である私たちも一つをされる。だからキリストにあって弟子同士が一つとなることができる。
 罪を犯さなかったり、誘惑を受けない完全ではない。しかしキリストに贖われ、愛され、平安と喜びを得ているから、神から与えられるものを選び取る。
4)キリスト者は永遠の世界に目標を置きつつ、この世に遣わされている。ある時代においては、修道院のように俗世間から離れて、最高善や霊性の高揚を求めた。だが、キリスト者は日常的な生活の中で、父子聖霊の神との交わりを持ちつつ、神・自分・隣人への愛、純潔な生活、謙遜な態度、清楚な身なりを通して、自己中心であったり、贅沢、虚栄の世にあって証しする。そこに肉なる思いはない。無心に神の国に献げられている。
 過ちに対して、神に悔い改め、赦され、神との関係がいつも正されているから恐れない。そういう聖化の歩みを造っていきたい。(新キリスト教辞典「完全主義」いのちのことば社参照)
 
 
 
--------------------------------------------------------------------------------
 
第三主日礼拝:2015年3月15日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。」(マタイ4:3,4)
 
題「人はパンだけで生きる者ではなく」(マタイ4:1-4)
1)主イエスは洗礼を受けた後、御霊によって荒野に導かれ、サタンの試みに遭われました。私たちの生活においても、事ある毎にサタンが試みるために来て、惑わし偽りを吹き込もうとしてきます。何かを成し遂げた後や心身に疲れを覚える時にサタンは働いてきます。
2)40日40夜の断食の後、主イエスは空腹になられ、試みる者が来て、「石をパンに変えて食べなさい」と勧めました。「神の子が飢えていてはいけない。石をパンに変えて空腹を満たしたらいいでしょう。その力と権威をもっておられる。だれも見ていない」と。しかし、主イエスは御言葉をもって退けられました。
@これは申命記8章3節の引用です。イスラエルの民は出エジプトして40年の間荒野を旅しました。厳しい出来事でした。神は天から日々マナを降らせて民を養われましたが、民はエジプトの食物を思い起こして欲しがり、不平不満を言い、つぶやきました。(出エジプト16:3、民数11:5)。そのために多くの人々が裁きを受けました。モーセは40日の断食をもって十戒を初め律法を神から授かり民に示しました。が、民は食物や渇きについてつぶやき、モアブの女に誘惑され、モーセやアロンの権威についてつぶやき、神の言葉に従わず、裁かれ、多くの民が命を失いました。
A主イエスは試みる者、誘惑する者に対して御言葉をもって対抗されました。人はパンだけによって生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである。肉体を養うもの、目に見えるものを豊かにするものだけによって生きているのではない。その人の魂や霊を生かすものによって真に人間らしく、神を愛し、自分と隣人を愛して生きることができる。キリストによって魂の喜びや永遠的な命と望みに生きることができる。御言葉と聖霊を熱心に求める者としていただきましょう。
 
 
--------------------------------------------------------------------------------
 
第四主日礼拝:2015年3月22日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。」(マタイ4:7)
 
題「主なるあなたの神を試みてはならない」(マタイ4:1-11)
 エルサレムの神殿の頂に立つ者とは、自らをメシヤとして顕す者である。サタンは神殿の頂から飛び降り、天使に守られて、華麗に舞い降りて、自分が神の子、救い主であることを顕しなさいと誘惑した。
 しかし主イエスは、申命記6:16の御言葉を通して、主なるあなたの神を試みてはならないと言われた。荒野で民が渇き、神が愛であり、共におられるなら水を与えよとモーセに迫り、神を試みた(出エジプト17:1-7)。神は民を滅ぼさず、神は岩から水を流れ出させ、民の渇きを癒された。
 私たちが信仰生活を送る中で、神にしるしを求めるのではないか。神が私たちを愛し、共におられるなら、どうしてこんなひどい目に遭いますか、どうしてこの不自由、不足がありますか、これを満たして下さいと願う。しかしサタンはそのように誘惑し、神を試みるように私たちに働いてくることにも注意したい。
主イエスは「姦淫の時代はしるしを求めるがヨナのしるしの他は与えられない」(マタイ12:39)と言われた。これは主イエスの十字架と復活を意味する。キリストは人々が驚嘆し、恐れ敬う奇跡を行って、人々を従わせるキリストとしてではなく、人々の罪の身代わりとして人々に捨てられ殺されるが甦らされ、人々を御国に入らせ永遠の命を受け取らせる救い主として来られた。
 
 
--------------------------------------------------------------------------------
 
第主日礼拝:2015年3月29日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい』。」(マルコ14:33,34)
 
今週の聖句
恐れを越えて立たれた主」(マルコ14:32-42)
ゲツセマネの祈り。最後の食事の後に、ゲツセマネへ11弟子と共に行かれた。いつも祈っている所に来て祈る。さらにペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて離れた所へ。
1)恐れおののいて、悩みはじめて、「悲しみのあまり死ぬほど」、「待っていて、目をさましていなさい」。気持ちを伝えて、祈りの要請。神の御子である方が、なぜそんなに恐れ悩み、苦しみ、訴え、祈りを要請されたのか。
2)進んでいき、「できることなら、苦しみの時が過ぎ去るように(新共同訳)、恐ろしい時が来ないように(LB)、」祈り続けた。そして、神の全能の告白、苦い杯(十字架の苦しみと死を通して人々の救いの道を開くこと)を取り除いてくれるように、しかし、自分の思いではなく、父の御心がなるように、と祈られた。
3)弟子たちは主イエスの言われる通りに目をさまして祈っていることができなかった。誘惑に陥ってしまった。
☆なぜ主イエスはそれほどまでに恐れ、悩み苦しまれたのか。
それは単に肉体的な苦しみを受ける、人々に裏切られ捨てられる、殺されるということだけでなく、罪を負い裁かれなければならない人間、罪人の代表(すべての人が神の前に罪人であるが)として神の前に立たされる、神から捨てられなければならなかったから。主イエスはいつも神と共におられた方、その方が罪人として神の怒り、裁きの前に立たなければならない、その恐ろしさや苦しみを知っておられたのは主イエスのみである。
 弟子たちは眠ってしまった。ペテロはイエスと共に死ぬと言いつつ、いざとなったらイエスを知らないと言い張る、弟子たちも恐れて逃げてしまい、自分の本当の姿を知らない者であった。その者たちのために、イエスは十字架に向かわなければならなかった。父なる神の御心に従い通して下さったから、私たちの救いがある。
 
 
--------------------------------------------------------------------------------