説教の要約:2014年2月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2014年2月2日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈 悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。」(ルカ10:36,37)
 
題「主による愛の関係を作ろう」(ルカ10:25-37)
1)ある律法学者が、主イエスに、「何をしたら永遠の命が得られるか」と問い、律法の教えの中心として、@自分の心と体と霊を尽くして主なる神を愛すること。A自分を愛するように隣人を愛すること(27節)を答え、イエスの同意を得た。私たちはその価値観をもって自分の生活を作っているだろうか。神を愛する者は神のいましめを大事にし守って生きる人である。日本人は神を知り、神の御言葉に立ち帰ることが求められている。(マルコ1:15)
2)この律法学者は、Aにおいてふさわしく隣人を愛しているかを自らに問われ、隣人とは誰かをイエスに問うた。当時、ユダヤ人はサマリア人と交際していなかった。それが律法的に正しいことだと考えていた。主イエスは憐れみ深いサマリア人の譬え話(30節より)をして、愛すべき隣人とは誰かを示した。主イエスが神の基準を示された方である。主イエスは、誰が隣人になったかと問われ、あなたも行って同じようにしなさいと言われた。
3)神が憐れみ深い方であり、イエスの憐れみによって私たちの罪はイエスによって贖われ、赦された。イエスが犠牲を払っておいで下さり、キリストが打たれたことによって私たちは癒され、キリストが代わりに捨てられたから私たちは捨てられない者となり、キリストが甦られたから、私たちもキリストと共に甦らされる。イエスを信じる者はイエスの弟子であり、イエスの働きを担っていく。私たちも憐れみの心を祈り求めてキリストから頂き、出て行って備えられた時、主が与えて下さった方々と愛の関わりを持っていくことが求められている。それが永遠のいのちを得る道である。
4)このサマリヤ人は自分の生活の範囲内で、できることを持ってこの強盗に襲われた人の善き隣人となった。
 私たちの信仰の働きが単に宗教行事であってはならない。生きた愛の関係を作っていくことを求められている。
 
 
 
 
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第二主日礼拝:2014年2月9日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。・・・・イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」(ルカ5:8,10)
 
題「恐れをもって主の働き人になる」(ルカ5:1-11)
 漁師であったシモン・ペテロはイエスを通して大漁を経験し、また自分が罪深い者であることを知った。そのシモンをイエスは人間をとる漁師へと召された。
1)背景:主イエスは宣教の働きを開始され、会堂で教え、病気を癒し悪霊を追い出し、神の国の福音を宣べ伝えた。イエスはシモンのしゅうとめの病をも癒してやった。人々はイエスの御業が力と権威を持って行われることに驚きそれを聞こうと捜し回った。
2)ガリラヤ湖畔で、群衆が神の言葉を聞こうと押し寄せたため、イエスはシモンに頼んで船を出してもらい群衆を教えた。
3)その後、船を沖に出して網を下ろすように言われた。ペテロは一晩中漁をしたが何も獲れず、疲れで心も沈んでいたと思われる。しかし、「先生、お言葉ですから」と言い、言われた通り沖に船を出して網を下ろしたところ、かつて経験したことのない大漁であった。仲間の船を救援に呼んだが、両方の船が沈むばかりであった。
4)ペテロはこれを見て、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言った。常識的に言えば、ペテロは漁の専門家であり、イエスは素人であったが、神はイエスと共におられ、御業を行っておられる。神が共におられる方として、ペテロが主イエスに畏れをもって出会った瞬間であろう。他の人たちも同じであった。
5)イエスはペテロに、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と言われ、イエスの働きを共に担う者として召された。
6)ペテロは主イエスが神的力と権威を持って、自分を富ませることができる方であると体験した。しかしまた一方で自分がそれにふさわしくない本当に罪深い者、汚れた者であることをも思い知らされた。そういう者であったからこそ、ペテロは一切を捨ててイエスに従わないではおれなかった。
7)私たちも永遠的なものを得るために、主イエスに従う者、主イエスの働きを担う者としていただきたい。
 
 
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第三主日礼拝:2014年2月16日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。」(ヨハネ13:14)
 
題「主の働きに参加する」(ヨハネ13:1-15、34-35)
 父の御許に行くべき時が来たことを知り、主イエスは弟子たちの足を洗い、互いに足を洗い合うように命じた。
1)イエスは自分の者たち(弟子たち)を愛してこられたが、最後の時までも愛し通された。
2)イエスを裏切る者がその仲間の中にいる。ペテロもイエスを3度否む者であり、弟子たちもイエスを見捨てて逃げ去る。それを承知の上で、教えなければならないことをされた。
3)イエスは弟子たちの足を洗い、互いに足を洗い合うように命じた。ペテロは師を重んじたため足を洗って欲しくなかった。しかしイエスは、弟子たちの足を洗うことによってイエスと弟子たちとの関係ができるとした。さらにそれは汚れたところを洗うことに意味がある関係である。
4)イエスは主であり教師である者であったが、自ら手本を示し、イエスに従う仲間の間では互いに足を洗い合うように命じた。弟子たちの中でイエスを裏切る者が起こってくるが、イエスの共同体は足を洗い合う共同体である。師によって遣われた弟子たちは師に勝らない。罪を本当に清めることができるのは、師であるイエスだけである。イエスの手本に学ぶ。弟子はイエスから霊的な力を得て、それを行っていく者である。〔自分の力で行おうと無理するとおかしくなってくる〕
5)ユダがイエスを裏切る行動を起こす。
6)イエスは互いに愛し合うようにいましめを弟子たちに与えた。イエスの弟子たちは互いに愛し合う人たちである。それは足を洗い合う人たちでもある。
7)主イエスを信じる人々の共同体は、イエスが愛し通されている一人ひとりからなる共同体である。しかしそこにもサタンが働いてくるし、かかとを上げる者が起こってくることもあるが、互いに足を洗い合う共同体である。イエスが僕となって仕えられたように、愛し合い仕え合う者たちの集まりである。
8)教会はイエス・キリストを主と告白する者たちの共同体であり、イエスの死と甦りに与る共同体、イエスに栄光を帰す共同体である。
 
 
 
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第四主日礼拝:2014年2月23日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――」(エペソ5:8,9)
 
題「光りの子らの賢い生き方」(ルカ16:1-13)
 ある家令が任されている主人の財産を使い込んで浪費し、主人に退職を命じられ、残務処理の時に考えた。力仕事に向かないし、乞食もしたくない。主人に負債がある人に恩を売って、後で自分を迎えてもらおう。早速、負債のある人を呼んで、・・・。
 主人はこの不正な家令のした利口なやり方を誉めた。この世の子は自分を守るため、得するためには恥も外聞もなく知恵を使う。世の中の富、これは不正な富であるが、それを用いて、うまく立ち回る。自分が用いることができる富を用いて、困っている人を上手に助けておくと、今度はその人が自分の命を救ってくれることになる。そういう友を作っておきなさいと主は言われた。
 マタイ25章には最後の審判において羊と山羊を右と左に分けるの話が出てくる。「あなたはわたしに飲ませてくれた、食べさせてくれた、着せ、見舞い、訪ねてくれた、」「これらの小さい者の一人にしたのは、わたしにしたのだ」と言われた。」貧しい者、困っている者を、富を用いて助ける、そのように富を用い、友を作った。その友が終わりの時にあなたを永遠の住まいに迎えてくれることもある。主人の財産をごまかして、自分の利益のために用いたことを誉めているのでもないし、勧めているのでもない。
 しかし、この世の子(闇の子)が自分に利益を取ろう守ろうとする、楽をし味わい、楽しもうとする、そのことにおいて熱心である。自分がこの世の富を楽しもうとすることにおいて熱心である。この世の富に熱心に仕えている。
 私たち(キリスト者)はイエスの弟子である。神を畏れ、神を信じ、イエスの言葉に従って生きようとしている。しかし私たちはこの世の子がこの世の富を求め楽しもうする熱心さに勝って、真の富を得る道である小さい者や貧しい者、困っている者に善を行うことに熱心であろうか。
 この世の富は消え去るもの、失われるものである。マタイ6:19-20。天に宝を蓄えなさい。「あなた方の宝のあるところに、心がある。目はからだのあかりだ。」(マタイ6:22) 目が澄んでいること、内なる光りが明るいこと、イエスから光を受けていることが大事だ。主イエスは世の光として来られた。
 世の心遣いと富の惑わしが主イエスの御言葉をふさぐ。世の快楽や楽しみが主イエスの光りを見えなくする。しかし、それらは決して私たちを幸せにはしない。単に惑わし、浪費させているだけである。
 私たちは自分に与えられている富を、また賜物を神のために用いる。貧しい者や困っている者、必要としている者のために用いていくことである。物質的には富んでいるが、霊的には貧しい者、困っている人、死んでいる人、そういう人は大勢いる。偽りの救いを信じて、魂に安息を得ることはできない。神と富みに兼ね仕えることはできない。
 
 
 
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第主日礼拝:2014年月日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
 
今週の聖句
 
 
 
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