説教の要約:2013年9月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2013年9月1日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。」(マタイ20:14)
 
題「値しない者を豊かに恵む神」(マタイ20:1-16)
1)主イエスは弟子たちに、天国のたとえ話をされた。ぶどう園の主人が労働者を雇ってぶどう園に送り賃金を払う話。朝早く出かけ、人を雇い、ぶどう園の作業に送った。9時、12時、3時、5時にも雇った。そして夕方、遅く来た人から順番に賃金を払った。5時から来た者は1時間ばかりの労働であったが1デナリの報酬を受けた。1デナリは当時の1日の正当な労賃であった。最後に朝早く来た者たちに支払われたが、一日中労苦したにもかかわらずその報酬は1デナリだった。この労働者たちは不平を言ったが、主人は約束した賃金で不正はない、この遅く来た者たちにも同じ賃金を払ってやりたいのだと言った。
2)なぜ同じ賃金なのか、労働時間が大きな差があるにもかかわらず不公平ではないのか。しかしそれは主人の自由意志である。ぶどう園の仕事にありつけたのも主人の自由意志である。早く来た者たちは正当な賃金を得た。遅く来た者たちは情け深い主人の気前よさから思わぬ大きな恵みにあずかった。なかなか職にあるつけない弱さや問題を抱えていたかも知れない。しかし主イエスはそういう者を先にして下さる方である。主イエスは父なる神をそのようなお方として顕された。自分は最初から働いている者か、あとから来た者か。
3)信仰とは、僕(シモベ)の信仰である(ルカ17:5-10)。自分の働きが評価されているか、それを人と比較して優劣を考える社会的習慣の中に置かれている。しかし私たちは受けるに値しなかった者が神の恵み憐れみによって救われた者であり、恵みによってぶどう園で働く幸いにあずかった者である。(マタイ18:21-35)
4)主イエスは、「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」(20:16)と言われた。これは前章最後の言葉(19:30)でもある。ある金持ちは律法に熱心な人であったが、永遠の命を得る道を主イエスに問うた。主イエスは財産を貧しい者に施して私に従ってきなさい、天に宝を持つと言われたところ、この金持ちは去って行った。この世の富から離れられなかった。主イエスに従っていくことによってのみ永遠の命を得ることができる。(マタイ21:28-32)
  この世の報酬を問う心から自由にされて、神のぶどう園で働くことの喜びを知る者としていただきたい。
 
 
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第二主日礼拝:2013年9月8日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。」(ルカ16:22,23)
 
題「死をも越える望みに生きる」(ルカ16:19-31)
 主イエスは欲の深いパリサイ人たちに対し、死後の世界の真理についてある金持ちと貧しい人の譬えをもって話された。
1)ある金持ちは、毎日贅沢を欲しいままに遊び暮らしていたが、門前にいた貧しい者に憐れみを掛けなかった。金持ちは死んで黄泉に送られ、燃え続ける火の中で熱さに悶え苦しんだ。一方ラザロはこの金持ちの食卓から落ちるもので飢えをしのごうと願っていた貧しい病気に罹っている者であったが、死んでアブラハム(ユダヤ人たちの信仰の父であり、神に祝福の基となると約束を受けた祖先)のふところに天使たちによって連れて行かれ、慰めと安らぎを得た。
2)ラザロという名はヘブル語でエレアザル、「神はわが助け」を意味する。貧しく病み、苦しむ日々であったが神をわが助け、避け所として生きたラザロを神はあわれみ、そして死後アブラハムのふところに置かれた。
3)金持ちはアブラハムにラザロを遣わし自分の渇きを癒すように求めたが聞かれず、両者の間に越えられない大きな淵があった。金持ちは門前にいるラザロを気にもかけず、その心は「神を愛せよ」、「自分を愛するように隣人を愛せよ」という律法の心から遠かった。
  この譬えは主イエスが欲の深いパリサイ人たちに対して語られた。パリサイ人は初めは神を畏れ律法を重んじ、国の復興を願い清貧な生活を重んじる者であった。しかし豊かになるに従って神の祝福の結果と誇り、貧しい者や病む者を軽んじた。自分たちの律法解釈、自分の義しさの固執し、周りを裁いた。主イエスの貧しい者や病む者にあわれみをかける教えを嘲った。
4)金持ちはラザロを生きている兄弟たちに遣わすようにアブラハムに求めた。しかしアブラハムは、律法と預言者があり、それに聞かない者は、死人が甦って行ってもしょせん聞こうとしないと断った。私たちは聖書の言葉に謙遜でありたい。神の言葉に永遠の知恵を得たい。様々な教訓に生き方を変えてきたか。地震が起こって生き方が変わったか。知恵を得る、生き方を変える。偶像崇拝は憐れみを忘れる。贅沢に、遊び暮らす、自分のものだと考える。人が目に入らない。
5)主イエスは神が遣わして下さった救い主であり、私たちが裁かれるべき罪の身代わりに死んで甦って下さった方である。この方によって私たちの罪は赦され、永遠の命が与えられる。この方のお言葉によって私たちは平安のうちに死を越え、死に打ち勝つことができる。
 
 
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第三主日礼拝:2013年9月15日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(ルカ19:10・新改訳)
 
題「失われた人を捜して救うために来られた方」(ルカ19:1-10)
1)ザアカイは取税人の頭であった。選民であった同胞(ユダヤ人)から通行税を取り立てて敵国であり偶像崇拝国であるローマに納めた。権力を背景に不正な取り立てもあり、人々からは一面恐れられつつも憎まれ軽蔑されていたであろう。
 またザアカイは背の低い人であった。差別や軽視を跳ね返して人を見返すために取税人となり、また取り立ても厳しかったであろう。取税人の頭となり金持ちとなっていった。しかし、本当に自分のことを気にかけてくれたり喜びを分かち合う友がおらず、内面的には孤独であったろう。
2)ザアカイはイエスを見たいと思ったが背が低く群衆に遮られて見えなかった。通り道のいちじく桑に登っていたザアカイを主イエスは見上げて、「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と声を掛けられた。これは、泊まらなければならない、という言葉であり、主イエスがこの町でザアカイの所に泊まる必然性があったこと、それが父なる神のご意志であったことを表す。人と共に食事をしたり泊まるということは親しい交わりや共に生活することを表す。主イエスがザアカイを親しい者として近づいて下さった。ザアカイは取税人であり、異邦人との交流があり、律法的には汚れた者であった。しかし主イエスはザアカイの心の叫びや必要を知って近づき救って下さった。
3)ザアカイは喜んで主イエスを迎えもてなし、自分の財産の半分を貧しい人に施し、不正な取り立ててに対し4倍にして償うことを約束した。主イエスは悔い改めを迫ったり、滅びを警告したのではなかった。ザアカイのもてなしを受け家を宿とされた。それによってザアカイの心が癒され、変えられた。
 
 
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第四主日礼拝:2013年9月22日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
イエスは彼にむかって言われた、『わたしに何をしてほしいのか』。その盲人は言った、『先生、見えるようになることです』(マルコ10:51)
 
今週の聖句
「何をしてほしいのか」(マルコ10:46-52)
 盲人バルテマイのいやしの奇跡について、3つの祈りの姿勢が浮かび上がる。
@どんな障害にもくじけない執拗に食い下がる祈り(47〜50節)
  バルテマイは、目が見えない不確かさ故、主イエスがどこにいるのか分からない、通り過ぎられたらどうしようもない不安があったと思う。彼は主の気を引くため叫んだ。弟子たちは彼を制しようとしたが、ますます、激しく、しつこく叫んだ。「私をあわれんでください」と。主のお呼びに、直ぐにやって来た。彼には、「この人による以外救いはない」という信仰の確信があったからだ。主イエスもご自身で彼に近づかなかったという事は、バルテマイが独りで立って、独りで御許に来るよう招かれたのではないかと思われる。「その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈りを聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。」
  (エレミヤ29:13)主は熱心に求めて来る者に、主(神)との出会いを与えて下さる。
A明確な具体的な求めの祈り(51節)
  「目が見えるようになることです。」彼は自分の求めているものをよく知っていた。実際祈るときにはあれもこれもと思いを広げやすい。また、自分の真の願いが分からない事がある。その中には、私たちがあまりしたくない自己検討も含まれている。私たちがイエスの御許に行くとき、バルテマイのように強い確信を持っていれば、必ず何かが引き起こされるであろう。
Bイエスが求め、喜ばれる信仰の祈り(52節)
  主は、私の祈りに応えて下さる。≠ニ信じることが、主イエスが求め、喜ばれる信仰である。それで十分。私たちは、折々にみことばに触れ、心励まされ、ますます主に信頼して祈ることが出来るようになる。
 最後に、バルテマイは道端の物乞いであったが、感謝の人であった。彼は癒やされイエスに従った。決して己の思うがままに歩まなかった。霊の眼が開かれれば開かれるほど人は主に従う者とされる。願わくは、自分の霊の目がさらに開かれるよう、執拗かつ信仰の祈りをささげたい。
 
 
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第五主日礼拝:2013年9月29日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しか もその心は主に向かって激しく怒る(箴言19:3)
5:18 「しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。」(Uコリント5:18)
 
今週の聖句
霊的反抗から癒やされよ」(箴言19:3)
霊的反抗・・・自分の生まれ育った環境、自分の家族、性別、職業、容姿などに対して受け入れがたい思いを抱いていることが、霊的反抗があることを指している。神がそれぞれの人生に与えて下さったものに対して不満を抱き、内心神に怒りを抱いている。案外それに気付いていない。苦しい状況や困難から逃れたいと思うことは気持ちは罪ではない。私たちが自分の人生や自分自身を拒絶することによって、自分を造って下さった神ご自身に反抗することになる。私たちは何らかの霊的反抗を抱いて、神に対して何らかの怒りを抱いており、神さまとの和解を必要としている。
1.霊的反抗とは
@神が与えて下さった人生と造り主である神ご自身からの逃避。エレミヤ1:5
A単にもっと良い状況を求める気持ちや、自分の人生を変えたいという願いではない。
B心の深い部分に潜む、神から授かった人生を拒絶する怒りに満ちた思い。(神様、どうしてこんなことをお許しになるのですか。関係、家族、出生、容姿や性格など)
C私たちは怒りを持っており(箴言19:3)、神との和解を必要(Uコリント5:18-20)としている。
2.神から与えられた人生を受け入れていますか。
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3.「いいえ」の答から分かること
@ありのままの自分であることに自由がない。
A「キリストにある自分」を受け入れられない。
B心の深い部分に潜んでいる傷や罪深い反応。
C神様に対する反抗や怒り。神に信頼できない。
 神から授かった人生や希望を拒絶。
4.神様からのメッセージは。
詩篇139篇。神様は私たちをすべてを親しくご存じ。信頼してよい。出生の前からご存じ。
5.霊的反抗の実
@死への願望。
A不器用であったり、体の動きがぎこちなかった り。
B人と関係がうまく持てなかったり。「こんな私でごめんなさい。」「私を好きにならないで」。最高の伴侶と思うべき人とむしろ悪い関係になる。
Cディスレキシア・・・・空間、時間、言語の混乱。完全に後ろ向きになった状態。恐れや怒り、生きることからの逃避や人生に対する拒否や拒絶によって内なる人に混乱、亀裂が入っている。
6.癒されるために
@霊的反抗の原因になっている人を赦す祈りをする。
A自分を赦す。
B詩篇139篇の真理に置き換える。霊的反抗の実である悪い習慣を告白し、良いものに置き換える。
 
 
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