説教の要約:2013年7月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2013年7月7日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)
 
題「この人以外に救いはない」(使徒行伝4:1-22)
 使徒行伝。主イエスの復活・昇天、聖霊降臨、弟子たちの宣教。復活の主が親しく現れて改めて、神の国のことを語られた。福音書における主イエスと弟子たちとの共同体が、イエスの御霊によって、新しい形をもって造られ拡がっていく。(ヨハネ14:16,26,16:13,14、使徒2:33) 神の国が拡大する視点で。
 罪を悔い改め、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、聖霊を受けた。イエスの弟子たち、聖霊の共同体に加わった。
 美しの門で生まれながら歩けなかった人がペテロらの働きによって癒された。この奇跡に集まってきた人々に対し、ペテロはイエス・キリストの御名がこの人を癒したことを証し、人々が十字架に付けて殺したイエスを神は復活させ、イエスの名を信じる者に救いを得させることを証しした。その結果多くの者が信じた。
 指導者たちがペテロらを捕らえ、翌日議会を招集して取り調べをした。ペテロは聖霊に満たされて言った。この人が歩けるようになったのは、あなた方は十字架に架けて殺したが、神が甦らせたイエス・キリストの御名によると。この人以外に救いはないと。指導者たちは無学なただ人である2人が大胆かつ確信に満ちて語る様子と、癒された人を見て驚き返す言葉がなかった。
 主イエスが約束されたことが起こっている。聖霊が注がれ(使徒行伝2章・・・ヨハネ14-17章)、主イエスが行っておられた業が、弟子たちの共同体を通して行われていく。癒しや救いが起こり(使徒行伝2,3章・・・・ヨハネ14:12)、また捕らえられ法廷に立たされる時も御霊が示されることを語る(使徒行伝4章・・・・マルコ13:9,11)。ペテロは聖霊に満たされて、大胆に語った。この人以外に救いはないと。主イエスの証人となった。弟子としての働きを担った。
 こうして、神の国は拡大する。芥子種が成長して、鳥を宿らせるようになる、社会を変革するようになる。
 私たちも、イエスを主と告白する者、イエス・キリストの御名に生きる者として、この信仰に生かして頂きたい。
 
 
 
 
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第二主日礼拝:2013年7月14日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』。その子の父親はすぐ叫んで言った、『信じます。不信仰なわたしを、お助けください』」(マルコ9:23,24)
 
題「主イエスの真実にとりすがる信仰」(マルコ9:14-29)
1)ある人の子供が霊に憑かれて、悲惨な状況に置かれ苦しみ、癒されるように八方手を尽くしたがどうしようもなかった。絶望的な状況の中で主イエスを知り、弟子たちの所へ連れてきたが、主イエスの弟子たちには追い出せなかった。後から来た主イエスに、この父は訴えた。主イエスは弟子たちの不信仰を嘆かれた。
2)父親は主イエスに「できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」と答えたことについて、主イエスは「もし、できればと言うのか。信ずる者には、どんなことでもできる」と信仰に招かれた。父親は自分の不信仰を恥じ、「信じます。不信仰の私を、お助け下さい。」と応じたが、自分の心の内を除いてみると、「必ず癒される。」という信仰がない、湧いてこないのを正直に認めざるを得ない、正直な言葉が口をついて出たと思われる。
3)しかし、この父親は、だからといって主イエスの下を去って行った訳ではなく、信じ切れない思いを抱きつつも、何とか主イエスに癒して欲しい、と取り縋らざるを得なかった。それを主イエスは、あなたの信仰と受け入れて、子供を癒して下さった。弱さや不信仰を持ちつつ、主イエスにお委ねする、お任せする、そこで真実に主イエスにお出会いすることができた。主イエスはそういう弱さや絶望、苦しみ、悲しみを引き受けて下さる方であり、その真実に委ねることである。
 私たちの内にも不信仰が働きそれに捕らわれやすいこの時代にあっても、神様や主イエス・キリストの力を自分の想像の範囲内に押し込んで諦め、自分自身に対する信頼や自分で解決しようとする思いが強く働いてくるが、それを放棄してどこまでもキリストに信頼しお委ねすることが求められる。キリストに委ねる時、聖霊が与えられ、キリストが共におられて働いて下さり、御霊の実(ガラテヤ5:21,22)、霊の賜物(1コリント12:)が与えられ、問題を解決し、あるいはそれに立ち向かう力や耐える力を与えて下さる。
 
 
 
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第三主日礼拝:2013年7月21日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」(ローマ10:14)
 
題「手引きしてくれる人がいなければ」(使徒行伝8:26-40)
目的;私たちは、主の愛を伝える証人とされている。
 この箇所で注目するところは、主はピリポを、サマリヤに主を信じた多くの人たちを置いてでも、ガザに向かう荒れ地に導かれた事である。そこに救いを求める心の渇いたひとりの人がいたからだ。主イエスとサマリヤの女の物語を彷彿させる。
 聖霊は、ひとりの人が救われるために私たちを遣わされる。遣わされるために
@主に用いられる器となる。
 主は直ぐな心を愛される(T歴代26:17)。日々の祈りの中で、自分の願望、意見よりも主のご計画がなることを求め時、主はその人を導かれ、具体的な行動となるよう、知恵と力を与えて下さる。
?主によって語る。
 宦官がピリポに、「何が書いてあるのか教えてほしい」と頼んだように、主に導かれて行く中に、私たちも安心して語れるよう、時と状況を設けて下さる。
 私たちは、ここで主がひとりの人の救いに導かれたように、私たちの周りにいるひとりの人の救いのために祈ろう。その祈りの中で自分が変えられ、証人として主に用いていただこう。
 
 
 
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第四主日礼拝:2013年7月28日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、・・・・」(ルカ7:7,8)
 
今週の聖句
「百卒長の信仰」(ルカ7:1-10)
 主イエスはある百卒長の信仰をイスラエルの中にも見られないほどの信仰だと賞賛し、その部下の病を癒された。それはどんな信仰だったのか。
1)この百卒長はユダヤ人ではなく、ヘロデ・アンティパスの傭兵であった外国人だと考えられる。百人隊の長であり、下級の将校に当たる。当時の将校は上級に媚び、下級に威張り、部下を厳しく扱うことが多かった。しかしこの百卒長は自分の頼みとしていた部下が死にかかると、ユダヤの長老に頼んで、この部下を癒して欲しいとイエスに求めてきた。このユダヤ人の長老たちはイエスに、この百卒長は行って願いを聞いてあげる値打ちのある人、ユダヤ人を愛し、会堂を建ててくれたと言った。この百卒長は部下を愛し、またユダヤ人を愛し仕える人であった。
2)この百卒長は自分が異邦人であり、自分は迎えに上がる値打ちがないと言っている。神の民であるユダヤ人や律法、制度を重んじており、また神を愛し、畏れ、その教えを重んじていたと思われる。この会衆に愛され敬われていた。イエスに対して、「主よ」と呼び告白している。使いを送ってイエスを家にお入れする資格がないと言い、神の使いとして用いられている人に対する畏れと敬意を払っている。
 この百卒長はイエスの権威を認めていた。神の力と権威を受けているから、癒しや悪霊の追い出し、様々の不思議な業が確実に起こると考えていた。軍隊に属する者は、権威ということが分かる。上司や主人が命じたことを部下や僕は命をかけて忠実に行う。その事に深い恐れを持ちつつ身にしみて受け止めていたであろう。まして神から権威を与えられて、人々の中でみ業を行っている主イエスだから、その言葉だけで僕は必ず癒される、言葉だけで十分だと百卒長は考えた。その信仰を主イエスは賞賛された。私たちも神を畏れ、主イエスの権威を信じ、お言葉に信頼する、信仰を働かせる者となりたい。
 
 
 
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