説教の要約:2012年10月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2012年10月7日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。」(出エジプト20:17)
 
題「むさぼってはならない」(出エジプト20:17)
「むさぼる」欲しがる。第六,七,八,九戒と異なる。それまでが行為を含む具体的なもの。それに対して第十戒は、「隣人の家をむさぼりたいと思うような心に生きてはならない。」心を問題にしている。「むさぼりの心」は貪欲。その心に支配されていく。
貪欲は偶像礼拝する者、キリストと神の国を嗣ぐことがない。(コロサイ3:5-7,エペソ5:5)
 ルターはこの戒めについて、「われわれは神を畏れ、愛する。だからわれわれは隣人の財産や家をずるい知恵で狙うようなことをしてはならない。一見正しいことをしているようでありながら、実は隣人の持ち物を自分のものにしてしまおうとしてはならない。そうではなくて、隣人に必要で役立つことをいつもしてあげていなければならない。」と語った。 ダビデ王は忠実な家来から妻を奪い取り、その家来を戦争の最前線に送って殺してしまった。預言者に責められるまでその罪に気が付かなかった。(2サムエル11,12章、マタイ5:27,28)
 パウロはエペソの長老たちに別れの教えを伝えた中で、「他人の金銀、衣服をむさぼったことはない」と言った。自分の生活のために、共にいた人々のためにも働いた。主イエスが『受けるよりも与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、いつも身をもって示してきたことを教えた。
 教会に生きること、それはむさぼりに打ち勝つ、与える生活の祝福に生きること。お互いが与え合うことを覚えるところである。貪欲の罪から解き放たれた者の自由の生活に生きたい。
 
 
 
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第二主日礼拝:2012年10月14日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。」(エゼキエル36:26)
 
題「石の心から肉の心へ」(エゼキエル36:23-28)
 バビロン捕囚に遭ったイスラエルの民がエルサレムへ回復される預言である。偶像崇拝し心頑なであった民が、固い石の心ではなく軟らかい肉の心が与えられ、神の霊によって従順に神を礼拝する者へと変えられる約束である。
 人生の中にくり返される問題を抱えたり、人生を破滅に導く強力な力が働く習慣がある時、苦い根を考える必要がある。幼い時に、父母を敬わなかったり、裁く思いを心に蒔くと、成長して、周りの人を汚し、破壊力をもたらす、人生における最も強力な否定的力となるものを刈り取る。
内なる誓い:人生初期に作られ、その後忘れてしまった思いと心の中の決意や約束。「大人になんかならない」「お父さんのように怒ったりしない」「うちでは絶対にそんなことはさせない。」「私が親になったら、絶対に・・・」 周りに築いた堅固な構造によって支えられているため、裁く思いが癒されてからも否定的な実を出し続ける。
石の心:幼年期初期、自分の弱さや本当の自分を見られることから自分を守るために防衛壁、殻。自分を傷から守ってくれる要塞と自分で信じ込んでいるが、自分を孤独にし惨めにする。神及び周りの人々を閉め出してしまう。石の心があると心ない言動や身勝手さ、人の気持ちを無視しても平気な態度をとる。家族からの愛や親密感を拒否する。
 形成されるきっかけ。赤ちゃんの時、親が求めに応えてくれなかった。夜中に泣いた時、親が腹を立てて対応した。夜中泣いても、誰も応えてくれなかった。しかし、愛情や笑い声、祈りが豊かにあふれている家族に置いては、石の心は軟らかくされる。
 癒しのために:認識する。自分が裁いた人を赦す。誰かと一緒に祈る。愛情あふれる触れ合い。
 
 
 
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第三主日礼拝:2012年10月21日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」(ヨハネ9:39)
 
題「見えると言い張る罪」(ヨハネ9:1-11,28-41)
1)弟子たちはある生まれつきの盲人について、その原因は本人の罪か、両親の罪かをを問うた。主イエスは、罪を犯したからではなく、神の栄光が現れるためだと言われ、目に泥を塗ってシロアムの池で洗うように命じ、盲人の目は見えるようになった。体の不自由や不幸な出来事の原因を因果応報で考え、本人や家族が責められたり苦しめられることがあるが、主イエスはそれを否定された。
2)パリサイ人らは主イエスが安息日規定を破ったとして罪に定め(24節)、イエスをキリストだと信じる者を会堂から追い出すことに決めていた(22節)。しかし、この目が開かれた人は、生まれながらの盲人の目を開いた例はかつてなく、イエスを神から来た人だと主張し、会堂から追い出された(34節)。主イエスはこの目の開かれた人に会われ、ご自分を顕された。彼は主イエスに信仰告白し、拝した。この人は肉体の目が開かれただけでなく、イエスをキリストだと信じ、ユダヤ教の共同体から追い出される苦しみにもかかわらず、永遠の命を受ける幸いと喜びに与った。ヨハネ9章の御言葉から多くの盲人が救いに与っているそうである。肉体の目は開かれないが、神が遣わされた救い主イエス・キリストに出会い、魂に安息や喜びを得る出来事が起こった。
3)「わたしが来たのは、裁くため。見えない者が見えるようになり、見える者が見えなくなるため」(39節) パリサイ人らはイエスを罪に定め、目の開かれた人を会堂から追い出したが、神の素晴らしい御業は、主イエスを通して行われた。パリサイ人たちは、自分たちが律法を重んじユダヤ人社会の秩序を守っているように誇っていたが、それは自分を義とし、神の御子によって行われる神の御業を妨げている罪に気付いていなかった。
 
 
 
 
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第四主日礼拝:2012年10月28日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。・・・・主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。」(イザヤ55:6,7)
 
題「恐れを超えて」
 主は、この長年病気持ちで貧しい取るに足りないような女性に心を留められ、主はご自分のすべてをかけられた。 この主と出会う時、人生は変わる。女性の失意と苦悩は喜びに変えられた。私たちも日々にこの主と出会って、何があっても、何処へ行こうとも喜びと平安の信仰生涯とされたい。
T、癒されたいという思いが恐れを超えた
 12年間出血症のこの女性は、人的にも財的にも病状においても絶望のなかにあった。その時イエス様の事を聞いた。イエス様だけが私の唯一の望み、自分の望みのない状況を変えて下さるお方だと確信した故、彼女はイエス様に近づく事ができた。主は心に願いを起こして下さり、実現に導いて下さる。
U、主のお言葉によって恐れを超えた
  そして、彼女は見事に癒された! 女性は恥ずかしい病であったためでもあるが、そっと触れて、そっと帰ろうとした。しかし、主はそれを許されなかった。女性は恐れおののきながら皆の前に出て、自分の身に起こった事を話したのである。私たちは受けた恵みを感謝しよう。主に栄光を帰そう。主はいつも信仰の告白を望んでおられる。そして、この女性が勇気をもって公に語ったように、信仰者同士でもまた信仰を持ってない人にも証すべきである。神様が自分にどんなことをして下さったか、もっと他の人に伝えられるよう、神に助けを求めよう。私たちの求むべきお方は、主だけだ。主のみがあらゆる問題の解決者であられる。
 
 
 
 
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