説教の要約:2012年9月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2012年9月2日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「あなたは隣人について、偽証してはならない。(出エジプト20:16)
 
題「偽証してはならない」(出エジプト20:16,23:1-9)
 偽証とは、裁判での偽りの証言を指す。身近な言葉としては、「嘘をつく」であるが、これは私的なことに用いられるのに対して、偽証は公な場で証言することであり、公的な影響もある。出エジプト記23章1-9節は、悪人や多数者に流されないで、真理・真実を語るべきこと、義しい裁判が行われるべきこと、真実が貫かれるべきことを求めている。
 この戒めは隣人について語られる。嘘は人間関係を壊す。友人関係において信頼関係が成り立たなければ友情は深まらない。嘘は嘘を呼ぶ。嘘をついていると二重人格になり、自分自身が混乱する。嘘は共同体を破壊し、神様との関係を壊す。
 エペソ4:14,15。「4:15 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。」「4:29 悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 
 
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第二主日礼拝:2012年9月9日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「あなたはわたしを生れさせ、母のふところにわたしを安らかに守られた方です。わたしは生れた時から、あなたにゆだねられました。母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました。」(詩篇22:9,10)
 
題「基本的信頼感を育てよう」(詩篇22:9,10、箴言3:5)
 
 
 
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第三主日礼拝:2012年9月16日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)
 
題「永遠の命に至る水を与える主」(ヨハネ4:5-26)
 主イエスは暑い昼にヤコブの井戸の側に坐り、水を汲みに来たサマリヤの女に水を求めた。遠路、人を避けるように暑い日中に水を汲みに来る女ではあったが、祖先ヤコブを敬う姿が見て取れる。ユダヤ人はサマリヤ人と交際していないと不思議そうに断ろうとする女に、ご自分が決して渇くことがない永遠の命に至る生ける水を与えることができる者であることを告げた。
 その生ける水を求める女に、夫を連れて来るように言い、女にかつて夫が5人有り、今一緒に住む男は夫でない現実を明らかにされた。永遠の命に至る水を得ることを妨げている、自分の渇きに気付くように促された。主イエスを預言者だと認め、先祖ヤコブよりもかなり偉い者だろうと思いつつ、ユダヤ人とサマリヤ人の礼拝を行う聖地の違いを問うた。
 主イエスは答えた。礼拝する場所の問題ではない。まことの礼拝が求められている。救いはユダヤ人から来る。〔サマリヤ人は南ユダのエルサレムに対抗してゲリジム山に神殿を建て聖地としたが、それは異なる神であった。〕この女はふしだらであったが、一面ヤコブの神を慕い、礼拝することを重んじていたと思われる。主イエスから、神が霊であり、礼拝する者も霊と真理をもって礼拝すべきことを教えられた。主イエスがキリストであることを知り、彼女の中で大きな変革が起こり、結果、町に帰って自分の過去をすべて言い当てた人がいる、この人がキリストではないかと証言し、人々をキリストの許に連れてきた。
 イエスを信じる人の腹から生ける水が流れ出る。これは御霊を指している。(ヨハネ7:37-39)
 
 
 
 
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第四主日礼拝:2012年9月23日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」(マタイ9:37,38)
 
題「大いなる収穫に参加する」(マタイ9:35-10:8)
 主イエスの働き。12弟子へ。72人へ(ルカ10:1-)。主イエスの十字架と復活後、120名の者が一緒に集まって祈っている所に聖霊が注がれた(使徒1:15-)。主イエスが使徒たちを選ばれた(マタイ10:2)。弟子に召して下さった(ヨハネ15:16)。権威や力を授けて遣わして下さった(マタイ10:1、ルカ9:1、10:1)。
 弟子は主イエスに従っていく者。「わたしに従ってきなさい。」
 弟子は互いに愛し合うように召されている。(ヨハネ13:35)
 イエス・キリストは弟子たちと共におられ、父なる神が共におられることを約束して下さった。(ヨハネ14:)
 主イエスは弟子たちを、福音宣教に、悪霊の追い出しに、癒しに遣わされた。(マタイ10:1、ルカ9:1、10:1)
 多くの病む者がある。悪霊に支配される者、自分の肉の力に苦しむ者がある。この世の習わしに苦しむ者がある。私たちは福音によって人々を解放し、キリストの権威にある自由に招くために遣わされよう。
 
 
 
 
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第五主日礼拝:2012年9月30日
 
説教者 加藤篤子師
 
今週の聖句
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、 彼らは飽き足りるようになるであろう。」(マタイ5:6)
 
題「義に飢え渇く人は祝福(さいわい)」(マタイ5:6)
◇聖書は「義」について何と言っているでしょうか。@普通一般には心においても行いにおいても神の言葉すなわちその律法に従うこと。申命記6:25「もし我々が命じられた通りに、このすべての命令を我々の神、主の前に守って行うならば、それは我々の義となるであろう。これが人の義です。」
A律法の語で、法に照らして審判を受け無罪と宣告せられることです。パウロは生命をかけて義しく生きようと律法を実行した結果、「義人なし、ひとりもなし」(ローマ3:10)と叫びました。
 そこで神はもう一つの道をつくられました。それは御子を世に降し、その御子の上に人の罪を背負わせて十字架上で殺され、その身代わりによって罪を赦す道を成就されました。神が設けられた救いの道ですから「神の義」と言います。「それはイエス・キリストを信じる信仰による義であって、信じる人に与えられるものである。(ローマ3:22)」
◇詩篇42篇はダビデ王が大罪を犯して逃亡した時の心境を詩にしたものです。ダビデは、どのような状態の時でも主を第一とした関係を築いて大切にしました。その結果、ダビデの生涯は祝福にあふれたのです。神との関係が正しい時、義=救いがあるというのです。
◇イエスは十字架上で「わたしは渇く」と。父なる神に見捨てられ極限の肉体的苦しみを体験されました。ですから罪に苦しむ者を理解することができるのです。義に渇く者は飽き足りることができるとお招きになれる唯一のお方です。イエスは私の所に来て飲むがよい。私を信じる者は心の奥底から生ける水が流れ出ると招いておられます。
◇主の祝福にあずかった私たちは、その幸いが家族の中に、その周辺にあふれ流れているであろうか。
 
 
 
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