説教の要約:2012年8月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2012年8月5日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「あなたは盗んではならない。(出エジプト20:15)
 
題「盗んではならない」(出エジプト20:15)
 旧約聖書では誘拐を最も重い罪に科される死刑に定めている。不当なやり方で人間の自由を奪い、自分の財産を増やすために売り飛ばしたり、勝手に用いたりする罪は死をもって償うべきものである。
 しかし、今日の時代にあっても、自分のやりたいことをやるために人から自由を奪っていることが起こっていないだろうか。人の自由を重んじない。無視している。それどころか、この人は自分のためにこれをするのは当たり前だ、自由を犠牲にしてこのように働くのは当たり前だと、自分のほうに引っ張ってくる。その人を物と同じようにしか見ていないことは大きな罪である。
 ドイツの哲学者カントは、人間固有の人格は、人間としての尊い値打ち、それは自分が生きて行くための手段として人を利用するということによって損なってはならないものだ、と言いました。人はそれぞれに目的とされなければいけない。単純にいうとお互いがお互いを生かすものでなければならないということです。
 この「盗んではならない」という戒めが物に関わる戒めである。他人を奪いその自由を奪う、そういう罪と、他人の物を盗んで自分のために利用しようとするこころ、それは同じ根に根ざすものです。
試験でカンニングする。人の知識を盗む。
 ハイデルベルク信仰問答は、この戒めについてこう書きました。
問20 神は、第八戒においては、何を、禁じておられますか。
答 神は、ただに、官憲の罰する、窃盗や強盗を、禁じておられるだけでなく、不正な、目方、物差、枡、品物、貨幣、利息、その他、神に禁ぜられている方法によって、暴力によるにせよ、権利を装うにせよ、隣人のものを、自分のものにしようとする、一切の悪いこと、企てをも、盗みとよばれるのであります。なお、これらに、すべての貧欲、自分に与えられたものの、不必要な浪費をも加えるべきであります。
 不当なやり方で、たとえば高い利子をつけて人にお金を貸したり、あるいは元手はそんなにかかってないのにうんと高い値段をつけてある人に物を売りつけたり、そのようにして自分の財産をふやすことに熱中することもまた、盗むことだと言います。浪費もまた盗みの一形態だと言うのです。
エペソ4:28「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。」
 正当な働きを自分の手でするということは、困窮の人びとに与えることができているということです。つまり、人が働いて生きるということは、それを他者に分けるという、そのことを既に目的としているものなのだとこの御言葉は教えています。
 日本は豊かになった。分け与えることのできる宝が与えられたことを喜ぶ。お互いにわかち合う。盗まないで生きるということは、盗まないで財産を得たと言うことを誇るのではなく、さらに与えるということのために生きる、その喜びを知るということです。   
                             加藤常昭師説教集「十戒」より
 
 
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第二主日礼拝:2012年8月12日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。(ヨハネ8:7,8)
 
題「裁く者に背を向けられる神」(ヨハネ8:1-11)
このテキストでどんな光景を見えるだろうか。
@朝早く、宮に集まった多くの人々に囲まれ、教えておられる主イエス。
A律法学者やパリサイ人らが血相を変えやって来て、真ん中に姦淫の女を立たせ、主イエスににじり寄る。〔この女を助けよう、愛そうという立場ではなく、イエスを何とか陥れようとする。その口実にこの女を用いている。人を目的にしているのではなく、手段にし、利用している。〕
B女の姦淫の罪を裁き、主イエスに詰め寄る律法学者やパリサイ人らに背を向けて、身をかかめて地面に何かを書いておられる主イエス。「あなた方の中で自分に罪がないと思う者がまず石を投げなさい」と言われる主イエス。
C恥ずかしい思いをして、衆目にさらされている。〔この女性は人間扱いされていない。石で撃ち殺されるべき生け贄としてみられているのか。しかし、神の目に見えているこの女性は、悔い改めて神に立ち帰るべき、あわれまれるべき小羊。〕
D主イエスの言葉に一人ひとりが裁かれた。年寄りから始まって、ついには誰もそこに残らなかった。〔このイエスという方が、神の力と権威を持っておられる方であったから。病や不自由を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を行う、天に属する知恵、知識に富んでいる方。神の聖さが、神の臨在がそこにあった。〕〔私に罪はないと言える者は一人もいなかった。イエスを殺そうと考えている人たちが押し寄せてきていたが、神の前に立たされた時、なお自分の主張が正しいと言える者はなかった。〕
E主イエスは、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と言われた。この女は後に主イエスが十字架に架けられたことを知り、自分の身代わりに裁きを受けて下さったことを知ったであろう。
 
 
 
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第三主日礼拝:2012年8月19日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。(ヘブル4:16)
 
題「天が開かれた人」(創世記27:41-46,28:1-22)
 父の祝福の継承をめぐって弟ヤコブはそれをだまし取り、兄エサウの怒りと敵意を背に、懐かしい家と愛する両親を離れることになった。初めての一人旅、ヤコブの心中には悔恨、恐怖、不安がいっぱい。石を枕に眠る中、その眠りの中で見た驚くべき夢。そして傍らに立って語られる主の声を聞く。ヤコブにとって、この神との出会いが信仰のスタートとなった。
T、神との出会い
 @ベテルで
 神はかつて祖父アブラハムが、約束の地に入って初めて祭壇を築き、公に礼拝したベテルの地にヤコブを導かれた。私たちも知識として神を知っている、礼拝を守っているだけではなく、生ける神との出会いを熱心に求めよう。神はこの礼拝の場にひとりびとりを導かれたのだから。
 A孤独の中で
 ヤコブは孤独と無力を痛感していた。この時彼は自分の本当の姿と直面した。孤独は単に淋しいなどというものではない。もっと深く、すべてのものを拒絶する姿だ。それはこの地上のすべてのものを頭から消し去って、神に出会うことを求めることである。何を差し置いても、神の前に静まる者となりたい。そこで自分の真の姿を知り、神の真実な愛の中で悔い改め、ゆるされ、きよめられ、御言葉に養われ、癒され励ましを受けて行くことが大切である。
U、主イエスこそ天と地を繋ぐ仲介者
 夢の中の「はしご」は「階段」を示す。(新共同訳聖書)神の惠によって天と地を結ぶものであった。天が開かれ、ヤコブは天に近づくことが許されているというだ。ヤコブが見た「はしご」は、天から下って人となられた主イエスの救いの働きを暗示している。(ヨハネ1;51と1テモテ2;5)
 私たちは救いに与ったところに留まらず、更に神との出会いを求めて、生ける神を実感し、神が共にいてくださることを生活の細部に渡って体験し、いつも天が開かれた人にされたい。ヤコブが「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」(16節)と驚きと喜びの声を上げ、益々主を崇めて行きたい。
 
 
 
 
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第四主日礼拝:2012年8月26日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
 (ヨハネ13:34)
 
題「主に支えられた愛の関係作り」(ヨハネ13:34,35,15:7-13)
主イエスは、永遠の命は律法を行うこと(マタイ22:36-40)であり、律法の要約は、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することであること(マタイ19:16)を教えた。
主イエスは弟子たちに、「互いに愛し合う」ように新しい戒めを与えられた。(ヨハネ13:34)
1)それは、主イエスが弟子たちを愛されたように愛する勧めである。その愛は父なる神が御子を愛された愛である。(ヨハネ15:9)
2)主イエスが弟子の足を洗って下さった愛。ヨハネ13:14。そして互いに足を洗い合うように命じた。
3)主イエスが私たちのために命を捨てて下さったことにより愛を知った。そして命に入れられた。御子の血によって清められた。(1ヨハネ1:7,9) だから私たちも兄弟を愛する。(1ヨハネ3:4-、神が御子を贖いの供え物として遣わして下さった。ここに愛がある。神の愛を知った者、神から生まれた者は互いに愛し合うべきである。神の愛を知る者、神に属する者は御霊を受けている者であり、愛する性質をいただいている者、愛さないではおれない者である。キリストが表して下さった愛は自分を与える愛であり、犠牲を伴う愛である。キリストが私の内にいて下さる時に、そういう愛に主が導いて下さる。
4)ぶどうの木は枝に樹液を送り、枝が成長し、実を結ぶようにすべての必要を備える。主イエスは天から聖霊を私たちに送り、聖霊に満たして下さる。聖霊の実は、愛、喜び、平和(平安)、寛容(忍耐強さ)、親切(慈愛)、善意、誠実(忠実)、柔和、自制(節制)である。(ガラテヤ5:22,23)
 
 
 
 
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