説教の要約:2012年7月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2012年7月1日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「姦淫してはならない。(出エジプト20:14)
 
題「姦淫してはならない」(出エジプト20:14)
1)神は人を神のかたちに似せて、男と女に創造された。人格的存在。神は「非常によい」と言われた。
2)結婚。「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。」(創世記2:24)
性は創造的な力を持ち、人と人とを結びつけ、一心同体にする。しかし性の持つ力のゆえ、腐敗にも大きい傾向を持つ。性の乱用は誤解による。
3)ホセアは姦淫を犯し逃げ出す妻を何度も追いかけ、赦し、そこで、姦淫を犯すイスラエルの民を愛し抜かれる神の愛を語ることを求められた預言者だった。しかし義については厳しい神を語っている。夫婦の愛を全存在をかけて生きられないことに、神に対する淫行が隠れている。
4)エペソ5:21-33。キリストが教会の頭であるように、夫は妻の頭。夫に仕えなさい。キリストは教会を愛し、ご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。ここに、姦淫をしてはならないの戒めが成就する。
 
 
 
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第二主日礼拝:2012年7月8日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、『主よ、お助けください』と言った。(ルカ14:30)
 
題「主イエスから目を離さないで」(ルカ14:22-33)
1)主イエスは強いて弟子たちを先に行かせた。ご自分は山で祈られた。敢えて厳しい環境に置かれることがある。主イエスは弟子たちを訓練される。見えるところうまく行っているようでも、緊急時に自分の本当の力が明らかにされる。私たちは主の弟子として派遣されるために訓練されなければならない。〔私は何者であるのかがはっきり分かっていなければならない。主イエスは弟子を養成しておられる。〕
2)弟子たちが逆風に苦しんでいる頃、主イエスは明け方、海の歩いて弟子たちの所に行かれ、「恐れるな」と声をかけて下さった。主イエスは神の御子である。私たちを見ておられて、折りに適った助け、救いの手を述べて下さる。主イエスを超自然的な力の持ち主である。水の上を歩き、嵐を鎮められる。主を真剣に呼び求めよ。
3)ペテロは波風に目を奪われた時、恐ろしくなり、水の中に沈み溺れそうになった。様々なことが起こってくるがそれに心を奪われてはならない。主イエスをしっかりと見つめ、神の約束を主イエスのお言葉を信じて水の上を歩く奇跡を見せていただける。
4)主イエスは罪の嵐から私たちを救う救い主である。自分が避け所としたり慰めとしているものが偶像になりやすい。自分が拠り所としているものが案外一番抑制が効かない。自分に流される。偶像ができる。習慣化され易い。主イエスは私たちに福音宣教を委ねておられる。永遠的なものを建て上げることにより命を守っていく。私たちが主にある夢や計画を持ち、大胆に用いられることができる。人間関係を主イエスにあって作る。主イエスにあって事業をする。祈りつつ、働く。それを突破する力を与えて下さる。成功へと導いて下さる。病気が癒される。経済的問題が解決されていく。人間関係が主にあって繋がっていく。それが信仰である。御霊の実を結ばせて下さる。霊の賜物を下さる。
 
 
 
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第三主日礼拝:2012年7月15日
 
説教者 加藤篤子師
 
今週の聖句
「御霊によって歩きなさい。(ガラテヤ5:16)
 
題「御霊によって歩きなさい」(ガラテヤ5:16)
今朝は詩篇17:1〜8を新改訳聖書で学びます。
    この詩は「ダビデの祈り」です。
◇1〜3節。ダビデは敵に追われ窮地に立たされて言います。聞いて下さい、見て下さいと切に祈っています。
 神様に何かを求める前に、自分の心を調べていただきましょう。正しい良心で大胆に祈るためにまず自分自身と神様との関係を正すことから始めましょう。(詩66:18。マタイ5:23〜)
◇3〜5節。ダビデは、?口の過ちをしまいと心がけました。(舌で罪を犯さない者は成功します。ヤコブ3:10)
 ?人としての生活の基準を聖書の聖言に置きました。?悪友・習慣・姦淫・金銭を愛する誘惑を避けるよう心がけたと言っています。
◇「神の恵みを得ることと、それを維持することは別のことです。聖霊を悲しませてはいけません。」という御言葉に心を留め、聖霊の臨在の許に生きる恵みを求めましょう。
◇イエス様は十字架の御苦しみを目前にして、「私はあなた方を捨てて孤児とはしない。あなた方のところに帰ってくる(ヨハネ14:18)」と約束されました。そして、その通りに聖霊が降臨されました。悔い改めて心を開いてお迎えするなら、内住して下さいます。お迎えした信者の注意することは、感情の高揚で内住を判別することなく、意志で主を告白しましょう。
◇「御霊によって歩きなさい」とは、聖霊に導かれて生活することです。今朝、ダビデの祈りを通して、信者が恵みを受けること、それを維持することを学びました。
◇15節。信者はこの世の相続分(繁栄)ばかりに心を向けると人生は不安定になります。永遠の繁栄を思い描いて今は自分のなすべき使命のために聖霊によって生活していきましょう。
 
 
 
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第四主日礼拝:2012年7月22日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。(ヘブル12:15)
 
題「苦い根を知り、良い根へ」(ヘブル5:16)
 人生の中でくり返し起こってきている悪い出来事や悪い習慣の原因を考える時、それを悪い実を結んでいる木に譬えることができる。実が結ぶために、何十年も要する。悪い実(怒り、恐れ、中毒や依存症)は、木の成長によって実を結んでいる。木の部分(構造レベル:習慣、条件反射、固定観念、家族システム、否認)を診断して変わらない場合、問題は根にある。心の内に苦い根がある時、自分の人生において苦い実の刈り取りをするだけでなく、周りの人をも汚す。苦い根は、@父母を敬う、A裁く思い、B偽りや誓い、C傷ついた霊、D家系の罪、E霊の闘い、が主に考えられる。蒔いたものを刈り取る。生まれてから、4才までの間に根の仕組みが私たちの中で組み込まれる。
苦い根とは、心の傷に対する罪深い反応、人をさげすんだり、批判したりする気持ちから出た裁き、人を赦さないこと。
苦い根の裁き
「種まきと刈り入れの法則」は不変で、自分が蒔いたと同じ種類のものを刈り取る。
裁くとその秤で裁かれる。(マタイ7:1、2)、蒔いたものを刈る取る。(ガラテヤ 6:7、8)「6:7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 6:8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
苦い根の期待
周りの人々や自分自身について常に最悪を予測してしまう考え方や態度で、自分が思い描いた通りに周りの人も振る舞うようにさせてしまうという習慣。
苦い根からの癒し
認識、悔い改め、赦し、十字架に付ける、命を注ぐ。
 
 
 
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第五主日礼拝:2012年7月29日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない(ルカ7:47)
 
題「多く赦されているから多く愛する」(ルカ7:36-50)
 神の国に住む者にふさわしい特性は何だろうか。主イエスは永遠の命を得るために律法を行うように教え(マタイ19:16、ルカ10:25)、律法の中心は神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する」こと(マタイ22:36)だと言われた。また弟子たちに愛し合うことが弟子としての本分である(ヨハネ13:35)ことを教えた。
 バプテスマのヨハネの教えや主イエスの御業に人々は悔い改め、罪人や取税人らも悔い改めた(ルカ7:29、マタイ21:32)が、パリサイ人や律法学者らは悔い改めなかった。この背景の中で罪深い女とパリサイ人とのやり取りがなされた。
 罪深い女は、パリサイ人シモンの家で食事に招待されていた主イエスの所に来て、涙で足をぬらし、自分の髪の毛でふき、足に何度も接吻し、高価な香油を塗った。この行為に対してパリサイ人シモンは不快感を表し、イエスに対しても「預言者だったら分かるだろう、罪深い女なのだから」と心の中でつぶやいた。
 当時イスラエルの国はローマに支配され、税を納めていたが、ローマの手先のように同胞から税を不正に取り立てる取税人や律法を軽んじる罪人たち、遊女たちが横行していた。その中で、そういう人々を見下し、「分け隔てする人」を意味するパリサイ派とあだ名され、真剣に律法を重んじ、清く正しい生活をする集団がパリサイ人たちであった。
 主イエスは、借金をより多く免除された人はより多く愛するであろうというたとえ話しを用いて、この女が自分(イエス)に対してしたことをパリサイ人シモンのしたことと比較して説明された。そしてその違いを、「多く赦されているから多く愛した」と評価され、女に向かって「あなたの罪は赦された」と宣言された。また、主イエスが自分の犯してきた多くの罪を赦すことができる方であることを信じ、多く赦されたから、自分のできる限りの愛で応えようとした信仰を評価し、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われ、「安心して行きなさい」と告げた。
 主イエスが来られるところで、神との関係が回復されていった。病気や体の不自由が癒され、悪霊が追い出され、罪が赦された。神の国が語られ、信ずる者に御国の支配が始まった。病む者、体に不自由のある者、罪人と言われる人々が主イエスを信じ、御国の約束を受けた。主イエスから大きな赦し、愛を受け、喜び、平安に満たされて、人々を愛する者に変えられていったことであろう。
 しかしパリサイ人シモンは主イエスの働きを受け入れず信じなかった。それは律法を行う義に立とうとし、できない者を裁き、さげすんでいたからである。しかし神の目から見てその義に立てる者はいなかった(ローマ3:10)。そのため人間的に律法を解釈した様々な法や慣習を作り、それを守ることにより自らを義とした。これは神によって義とされるのではなく、自分たちの方法によって義を造っているのである。(自己義認)。主イエスはそれを非難された(マルコ7:5-13)。それは神の御心から離れていた。〔現代のクリスチャンにおいても、御言葉を自分に都合良く理解し自己義認に陥り、神の御心である、「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する」戒めをないがしろにすることが起こる。〕自己義認は自分が定める律法(なすべきこと)を熱心に肉の努力(頑張り、我の努力)で行うことにより、義を勝ち取ろうとする。自分の律法を行うことに忙しく、人を裁く。主イエスは、「少しだけ赦された者は少しだけしか愛さない」と言われた。そうではなく、神の大きな赦し、大きな愛を信じ期待しなければならない。
 ヨハネは、御子が命を捨てて下さったことにより愛を知った、キリストによって命を得た者は当然のごとく兄弟を愛することを伝えている(1ヨハネ3:14)。神が私たちを愛して御子を贖いの供え物として送って下さった(1ヨハネ4:10)。ここに愛がある。神から生まれ、神を知っている者は、互いに愛し合うし、愛し合うべきである。信仰は愛を生み、愛に至る。イエスを主と告白することと、罪が赦されること、互いに愛し合うことと神が共におられることはつながっている。
 大きな罪を赦された者であるから、それに感謝して愛すればいい。そこにとどまり続けることが大事である。しかし世に出て行くと他の人を見てパリサイ人になり自己義認に生き始めると愛が少なくなる。しかし自己義認によって何とか義が成り立っていると思う偽りを捨てて、愛さないがゆえに失っている大きな損失に気付き、愛する者と変えていただきたい。信仰によって生きたい。
 
 
 
 
 
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