説教の要約:2011年8月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2011年8月7日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。(ルカ18:17)
 
題「幼子のように神の国を受け入れよ」(ルカ18:1-17)
1)人々は子供たちを主イエスに触って欲しいと連れてきた。弟子たちは子供にはまだ分からないと考えたのか、それをたしなめた。主イエスは弟子たちに、子供が自分の所へ来るのを妨げないように言い、子供たちを抱き、手をおいて祝福された。(マルコ10:16)「神の国は幼子のような者の国」「誰でも幼子のように神の国を受け入れる者でならなければ、そこに入ることは決してできない」と言われた。
2)幼子は主イエスに抱かれ、手を置かれ祝福されることを喜ぶ。教えられたことを素直に受け入れ、疑ったり拒否したりしない。そのように生きる。大人は自分の経験や習慣に囚われてそれを受け入れにくい。「誰でも幼子のように受け入れる者」となることが求められている。
3)主イエスは、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。」(ヨハネ3:3-5)と言われ、新しく聖霊によって生まれる、霊の人として生きるべきことを教えられた。
4)1節で、主イエスは、神の国が来ることを失望しないで熱心に求め続けることを教えられた。そこに信仰が必要である。神が天の父であり、全知全能の方であり、私の必要をご存じで必ず最善最良の時に満たして下さる。私たちを子として慈しみ守って下さることを心から信じ、そのように生活することである。9節に見られる、自分を律法の行いによって義とするのではなく、神に義として頂く、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することにおいて成長する信仰者でありたい。それが神の幼子としての生き方である。神の御言葉に従う者を神は祝福し神のご支配の中に必ず守って下さる。
 
 
 
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第二主日礼拝:2011年8月14日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」(創世記50:20)
 
題「人の悪を良きに変えられる神」(創世記50:1-15,50:15ー21)
1)飢饉が始まった。カナンの地でも飢饉が起こり、ヨセフの兄弟たち(10人、ベニヤミンを除く)が食料を求めてエジプトに来て、エジプト全国のつかさとして食糧管理をしているヨセフの前にひれ伏した。ヨセフの見た夢の実現。ヨセフは気づいたが兄弟たちは気付かず。ヨセフはカナンから来た回し者として疑い捕らえさせ、父や弟のことを聞き出した。ヨセフは食料を十分に持たせ、また持ってきた銀をも持ち帰らせたが、人質としてシメオンを捕らえ、疑いを晴らすために弟を連れてくるように命じた。
2)再び食糧を求めてヤコブは息子たちをエジプトに派遣するが、ユダはベニヤミンを連れて行くことを譲らず、ヤコブは渋々承諾した。
3)ヨセフは自宅で兄弟たちに食事をふるまった。一方家司に十分な食料をそれぞれの袋に詰め持たせたが、ベニヤミンの袋の中には銀の杯を入れさせ、それを理由にベニヤミンを奴隷として捕らえるように命じた。彼らはこのような目に遭うのは弟ヨセフにした仕打ちの報いだと悔いた。ユダがヨセフに、ベニヤミンを失うと父は悲しみ生きておれないことを告げ、自分が代わりに人質になることを申し出た。
4)ヨセフは自分の身の上を明らかにした。兄弟たちは仕返しを恐れた。しかし、ヨセフは自分をエジプトに送ったのは神であり、この飢饉に備えて人々を救うために神がされたことだとした。ヨセフは兄弟たちと和解し、まだ飢饉が続くから父と一族がエジプトに来るように勧め、車を遣わした。
4)ヤコブが一族でエジプトに下ってきて住んだ。
5)ヤコブが死んで後、ヨセフの兄弟たちはヨセフの仕返しを恐れたが、ヨセフは、「自分は神に代わり得ない。人は自分に悪を企んだが、神はそれを良きに変えられ、多くの民の命を救おうと計らわれた。皆さんを養います。」と善をもって報いた。
 
 
 
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第三主日礼拝:2011年8月21日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
こころの貧しい人たちは、さいわいである、」(マタイ5:3)
 
題「欠けの幸い」(マタイ5:3-10)
 山上の説教は、主にある幸いを「何と幸いか」と感動的な言葉で始められている。ここで言う「幸い」とは、この世の基準によるものではなく、神の目から見た「幸い」である。
その幸いとは、
@心の貧しさである。「心の貧しさ」とは、神なしには満足できない魂であり、神を切に求め、神により頼む者となった人である。私たちが富む者となるために貧しくなられた主(2コリント8:9)は、貧しい魂を探し求めて訪ねられる。
A神が与えられる。世の幸いは、偶然に来て偶然に去るが、主による幸いは内からわき出て、魂を潤す。外なる人は衰えるが、内なる人は日々新しくなる。見えるものではなく、見えないものに目を注ぎたい。(2コリント4:16,18)
B神の国を持つ。現実には神の愛の支配が及び、主の再臨の時に、主の栄光に与ることができる。
 
 
 
 
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第四主日礼拝:2011年8月28日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは 慰められるであろう。」(マタイ5:4)
 
題「悲しむ者に天来の慰めを下さる主」(マタイ5:1-12)
 悲しい苦しい多くの出来事が起こってくる世の中である。私たちはどこから慰めを得、その中から立ち上がり生きる力を得ていくだろうか。キリストは悲しむ者は幸いだと言われた。
1)悲しみに目を向ける、素直に心から悲しむ。
・悲しみに目を背けない。心を固くしない。凍らせない。心を表に出す。本当に悲しいと無感覚になる?。心を閉じる。傷を受ける。
・悲しむことを恥じない。
2)共に悲しんで下さる方に目を向ける。
・ラザロの復活。マルタ、マリヤと共に泣いて下さった。(ヨハネ11:35)
3)本当に悲しむべきもの(罪)に目を向ける。人間は悲しみの中で罪を犯す。悲しみの中で罪が現れてくる。(人との関係において)
・「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)
・「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」(2コリント7:10)
4)本当の悲しむべき所を通られた救い主(死、黄泉、父に捨てられる)に目を向ける。
「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。」(ヘブル5:7)
5)本当の望み(救い主、天)に目を向ける。
6)慰めの共同体に生きる
・悲しんでいる者のために執り成す。
 
 
 
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