説教の要約:2011年7月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2011年7月3日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「また次の子の名をエフライムと名づけて言った、『神がわたしを悩みの地で豊かにせられた』(創世記41:52)
 
題「神の霊を持つ者を引き上げられる神」(創世記41:1-57)
1)罪を犯して侍衛長の牢に入ってきた王の給仕役の長と料理役の長の夢を解いてやり、その通りに事が起こった。給仕役はヨセフに牢から出られるように取り計らうように頼まれたことを忘れ、ヨセフはさらに2年待たねばならなかった。
2)王が夢を見、給仕役の長の進言により、ヨセフが召し出され、夢を解いた。それは7年の豊作の後に7年の飢饉が起こる予知的な夢であった。この危機的状況から国を救うために収穫物を備蓄するようヨセフは進言した。それは王や家来たちの目にかない、ヨセフはエジプト全国の司に抜擢された。
3)ヨセフの指導の下、7年の豊作の間に莫大な食糧を備蓄し飢饉に備えた。
4)ヨセフは祭司の娘との間に2人の子が与えられ、マナセ(「神が私にすべての苦難と父の家のすべての事を忘れさせられた」)、エフライム(「神が私を悩みの地で豊かにせられた」)と名付けた。
 神は罪を着せられ囚人とされたヨセフと共におられて、その成すところをすべて栄えさせられ、ヨセフをその侍衛長の獄屋の管理監督者とされた。摂理により王の給仕役や料理役の長たちの夢を解く機会を与え、また霊的知識や知恵を与えた。これは後に王の夢を解く事態に発展し、ヨセフの生涯を大きく変えた。ヨセフも敬虔と忍耐をもって神の訓練を受け成長し、エジプト全国の司として立てられる時に備えた。ヨセフは神の霊を受け、霊の賜物を与えられて、人に仕え、人を治め、国の危機的状況の救済者となった。
 
 
 
 
 
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第二主日礼拝:2011年7月10日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。(ルカ18:14)
 
題「自分を高くする者を低くし、自分を低くする者を高くされる神」(ルカ18:14)
 神殿における祈りにおいて、二人の姿勢が異なっていた。自分が義に生きていると自負していた者と、義しい者でないと思い込んでいた者において、神は後者を義と認められた。
 ここにおける義とは、道徳的な基準によって正義と判断できることを実行する事ではなく、神との関わりが正しいこと、神に義しさを認められることを指します。神が義とされたのは、このパリサイ人ではなく、取税人であった。神がこの人と義しい関わりを持って下さった。
 人間は欠けや恵みを満たして下さるよう神に懇願し祈り、また感謝する。しかし、このパリサイ人の祈りは、懇願でも感謝でもない。彼は戒めを守り、祈りと断食をし、献げる立派な人であった。その事実を並べ、取税人と比べてこのような立派な信仰生活をしていますと感謝し、自分を誇っており、自分の努力によって義は達成されていると考えている。一方取税人は、神に背いている人間と人々から軽蔑されていた人であり、自分から堂々と宮の前の方で祈ることができず、離れて、罪人の私をお許し下さいと祈るしかできなかった。自分を義とすることができず、神の憐れみにすがるしかなかった。〔「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛せよ。」「受けるよりは、与える方が幸い」において自分を義としにくい。〕
 神の憐れみがなければ生きられない人間と、神の憐れみがなくても生きていける人間があると言っているのではない。すべての者に、自分を低くするように、へりくだるようにと勧めておられる。「だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」素直に、素朴に神の恵みと憐れみを求めたい。
 
 
 
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第三主日礼拝:2011年7月17日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。(コロサイ3:8-10)
 
題「内なる人の変革を」(コロサイ3:8-10)
内面の癒しの必要
 信仰生活の聖化と変革を妨げるものを除く。「幼子のように神の国を受け入れる者でなければ・・・」(ルカ18:17)とあるが、霊的健康を妨げているものを取り除き、命を流していく必要がある。苦い根があると周りを汚し、罪の連鎖を引き起こす。
☆@認識
*実を検証する
*苦い根を捜す
*御霊によって教えていただく
 次の3つのステップ(ABC)によって、キリストの体と和解する。
☆A告白と悔い改め
1ヨハネ1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
☆B赦し
*罪を告白することにより神は赦して下さる。
*赦しの宣言をする。
*自分を傷つけた人、自分自身、神を赦す
*神への愛、自分が傷つけた相手への愛から生まれる「神からの悲しみ」によって悔いることから、本物の変化がもたらされる。
☆C罪の構造を十字架に付ける祈り
キリストの血潮による赦しを受け取ることによって、私たちは罪から清められる。ミニストリーの中で、さらに、その罪を支えていた構造を見つけ出し、崩壊させるのを助ける。
構造:私たちの内側にある、裁きや苦々しさを表現してきた「悪い習慣的行動」や「反応パターン」。これらの構造をキリストの十字架に付ける祈りによって、これらの構造を粉砕し破壊するのを助ける。
☆D命を注ぐ
*キリストにある「新しいいのち」を求める
・新しい心と新しい霊のために祈る
・思いが新しくされるように祈る
・イエスにある新しい命に留まり続けるために、癒しには訓練も含まれる。新しく癒された霊は、訓練を通して力と安定と知恵を得る。
 
 
 
 
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第四主日礼拝:2011年7月24日
 
説教者 加藤篤子師
 
今週の聖句
「わたしたちの神の僕らの額(ひたい)に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。(黙示録7:3)
 
題「神の所有としての印」(黙示録7:1-17)
 ヨハネ黙示録は使徒ヨハネが地中海の流刑のパトモス島で見せられた幻です。
◇6章は巻物の封印1〜6までが開かれて激しい怒りの嵐が起こってきます。その次が7章です。嵐の中の静けさのような所、それが7章です。四隅に立つみ使いは地も海もそこなう権威を与えられて裁きのために立っていました。もう一人のみ使いが少しの間それを押し留めています。それは何のためでしょうか。
◇神の所有としての印。それは神が世の初めより選ばれた民、神が救われた人々に、「これは神のものだ」という神の印を押し終わる間だけどんなことがあっても神の怒りが地上に臨まないように四人の御使いがこれを留めていたのです。
 イエス様を信じた者の額(ひたい)には、ちゃんと印を押しておられるのです。人には見えません。しかし神の目からごらんになったら見えるのです。
 神はご自分の所有をきちんとご存じでご自分の所有に関しては片手間ではなしに全存在を傾けて保護し導いて下さることを知らなければなりません。
◇証印を受ける資格。神はどういう者に対して印を押して下さるのでしょうか。9節「数え切れないほども大勢の群衆が白い衣を着ていた。」その白い衣とは、14節後半で「その衣を小羊の血で洗い、白くしたのです」と言っています。
 神は独(ひと)り子をこの世に降(くだ)し十字架につけて血を流させ、その救いの業を成し遂げられました。これを個人的に自分の罪を認めてキリストの救いを信ずる人。この人の額に神は印を押されるのです。皆さん!あなたは信仰によってこの印を頂いていますか。このお方を受け入れて印を押されたならば、このお方を信頼し御手の中に委ね切っていきましょう。すると生きづらい人生も希望をもって進めるのです。
 
 
 
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第四主日礼拝:2011年7月31日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」。(ルカ18:1)
 
題「めない祈りを顧みられる神」(ルカ18:1-8)
 私たちが神と出会うのは、優れた神学的教条や思想体系によるのではなく、人に言えず一人悩んでいるような、自分の隠れた弱さや恥じているようなことにおいてではないでしょうか。そこにおいて神を求める。そこにおいて祈らずにはおれないのではないか。神を求め、神について知ろうとする、信仰を求めること自体が祈りです。聖書は神を信じないと分からない。神を信じるとは、神が生きておられることを分かる、私のためにおられるということが分かることです。自分が神様とおつきあいする、既におつきあいしていることを知っていることです。単に神についての知識がある、増えることではない。このおつきあい、交わりが祈りです。神が生きておられることは、神ご自身がそれを教えて下さった時に分かります。祈りは神の名を呼ぶだけでいい。主イエスは、「天の父」と弟子たちに教えて下さった。
 祈りの生活を始める時、神が答えて下さらない、あるいはどう答えて下さるのか分からない、空を打つような思いとなり、気を落とす、失望するかもしれない。そういう中で、主イエスはこの譬え話をされた。神を恐れない、人を人とも思わない不義の裁判官がいた。あるやもめは自分の受けている不当な仕打ちを正しく裁き守ってくれるようにこの裁判官に訴えた。諦めないで、激しく訴え続けたため、この裁判官はその悩まされる生活から解放されたいと思って、やもめのためになる裁判をしてやった。まして天の父である神は、ご自分の民が熱心に求めてくる祈りに答えて下さる。速やかに裁いて下さる。天の父は祈りを聴いて下さる方である。しかし主イエスは最後に、「私が来る時に信仰が見られるだろうか」と問われた。信仰の祈りが求められている。神が必ずそれをして下さると信じて祈る、神の義に頼って祈る、幼子のように信頼して祈る。