説教の要約:2011年4月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2011年4月3日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。・・・・ヤコブは答えた、『わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません』。(創世記32:24,26)
 
題「祝福を求めて格闘する」(創世記32:、33:)
 ヤコブは妻子、しもべ、家畜を連れて、兄エサウの地に帰って行った。兄を騙して祝福を奪い、兄に憎まれ命を狙われて、伯父ラバンの許にのがれ、20年過ごしてきた経緯があった。神はヤコブに神の使いたちを見せたが、ヤコブは信仰に立ちきれず、恐れは募った。兄に使者を送り、自分を兄のしもべと位置づけ、奴隷や家畜の贈り物をしたい旨を告げた。使者はエサウが部下を400人連れてこちらに向かっていることを告げ、危害を加えられないかと恐れた。ヤコブは神に恐れを告げ、神の約束を確認し、助けを求めた。ヤコブは一行を二つに分けて、最初の群れを兄への贈り物とし、迎えてくれるように、またもしもの時には逃げ切れるように謀った。
 ヤボクの渡しを皆に渡らせて、ヤコブだけその夜、神の使いと格闘した。神の使いはヤコブに勝てず、もものつがいをはずしたため、ヤコブは歩けなくなった。ヤコブはなお神の使いを離さず、祝福を求め続けたため、神の使いはヤコブに、ヤコブ(押しのける者)の名をやめ、イスラエル(神が支配される)の名を与え、ヤコブを祝福した。〔ヤコブはいろいろ考え、手を尽くして自分で物事を支配しようとする習慣から離れられない性質の人であったが、もものつがいが外され、自分で立てず、神により頼まなければならなくなり、神の祝福を受ける者とされた。肉の力、肉の自分中心、肉の自我を十字架に付け、キリストの思いを知らせる聖霊に支配されて生きたい。〕
 仕え女と子供たち、レアと子供たち、ラケルと子供の順で一行を整えたが、ヤコブはその先頭に歩み、エサウと再会し、喜び合い、妻子たちを紹介し、無事贈り物を贈り、この地に住むこととなった。
 
 
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第二主日礼拝:2011年4月10日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』(マタイ21:37,38)
 
題「誰が神の御子を殺したのか」(マタイ21:23-46)
 受難週の出来事。祭司長や民の長老たちが、宮で人々に教える主イエスに、何の権威によってするのかを問うた。主イエスは、「ヨハネのバプテスマはどこから来たか」について答えるなら、自分もその問いに答えようと言った。祭司長らは、人々が続々とバプテスマのヨハネの所に行き、悔い改めのバプテスマを受けていることを知っていたので、天からであると分かっていたが、それを認めたくなかったので、分からないと答えた。
 主イエスはその態度に対して、ぶどう園を持つ人と二人の息子の譬え話をした。父の願いを行った弟をほめ、同様に、ヨハネの説いた義の道を信じて悔い改めた取税人や遊女が先に天国に入るとし、悔い改めなかった祭司長や民の長老らを責めた。
 また続いて不正な農夫たちの譬え話をされた。主人からぶどう園を借り受けながら、収穫期に分け前を受け取りに来た主人の僕たちを殺した。主人は最後に息子を送ったところ、農夫たちはぶどう園を自分たちのものにしようと息子をも殺してしまった。この話を通して、神が遣わされた神の御子イエスを殺そうとする祭司長やパリサイ人たちの罪を指摘し、悔い改めを求めた。
 この世において自分が習得したもの、獲得したもの、管理しているものは自分の所有物、私有物だと思い振る舞っていないか。すべてのものは神のものであり、神から管理を任され預かっているものである。そのことに畏れと感謝を持って仕えるべきである。
 
 
 
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第三主日礼拝:2011年4月17日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。(イザヤ53:7)
 
題「イエスの沈黙」(マタイ21:1-12)
 主は十字架を前に、ヘロデの前で沈黙を守られた。それは裁く者、裁かれる者の立場を逆転した。その主イエスの沈黙が意味するところは、
@人間の罪の深さを明らかにされたということ。
主イエスの持っておられる力からすれば、ヘロデの求めに応じて何か奇跡をやって見せることは何でもないことだったが、しかし、主は答えられなかった。しゃべり続けて主イエスを沈黙に追い込む人間の言葉とは、それは不信仰の言葉でしかない。”静まってわたしこそ神であることを知れ”(詩篇46:10)。私たちの方こそ、神の前に沈黙しなくてはならない。
 主イエスが沈黙を守られた時、ヘロデはその権力でイエスを侮辱し、嘲った。神を信じない時、人はごう慢な思いに酔っている。本当は私たちが裁かれなくてはならないという思いが全くないところに、私たちの罪そのものがある。
A罪に対する神の裁きが全うされた。
 神は主イエスが裁かれたことにより、私たちが神の裁きに遭わないで済むようにして下さった。
 主イエスの沈黙の中に始まっている神の罪の赦しの奇跡こそ、人を真実に生かすものである。
 
 
 
 
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第四主日礼拝:2011年4月24日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「そのとき、イエスは彼らに言われた、『恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい』。(マタイ28:10)
 
題「甦りの主イエスにお会いする」(マタイ28:1-15)
 自分の思うように行かない、むしろ、不慮のことが突然に起こってくる世の中で何を支えに生きていけばいいでしょうか。この箇所に登場する女性たちは、人生が変わり、イエスを支えにイエスに従ってきていた人たちでした。しかしその師が突然に捕らえられ、十字架に架けられて殺されてしまいました。その大きな失望の中で、キリストは甦られました。
1)恐れに捕らわれている中、御使いは、主イエスは恐れるなと言われた。不慮のことが起こってくる、神に敵する力が働いている世の中、それが大きく見える世の中である。普通に生活すると神に敵対する世の中である。神が遣わしたイエスを捕らえ、殺し、イエスを信じる者に敵する力が働く世の中である。しかし神が必ず勝利して下さるから恐れるなと言われる。
2)御使いは、「主は甦られたと弟子たちに伝えなさい」と言った。御使いはイエスの遺体がそこにない事実を確認させ、主が死を打ち破って甦られたことを告げた。聖書は、罪の結果として人は死ぬ者となったことを語る。主イエスは甦ることを通して、死や罪の力、サタンの力に打ち勝つ権威を持っておられることを実証された。イエスを信じる者はイエスが語られた幸いを得ることができる。
3)主イエスは、「兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えることを告げなさい」と言われた。弟子たちにとってガリラヤは故郷であり、古い自分の生活が染みついた場所であり、主イエスを失って失望し、帰っていくしかない地であった。甦りの主イエスは弟子たちを兄弟たちと呼ばれた。神が父であり、イエスが兄弟と呼んで下さる主エスの弟子たちも神の子供たちである。弟子たちは、ガリラヤで復活の主にお会いし、新たに宣教の使命を与えられ、主が共におられる約束をもって遣わされる喜びを与えられた。また、主イエスの復活を通して、山上の教えやたとえ話、人々との出会い、様々な交わりの中で語られたことが真理であったことを確認した。これはイエスを信じる私たちにも同じ約束である。
 
 
 
 
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