説教の要約:2010年10月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2010年10月3日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。」(ルカ10:39)
 
題「なくてならぬものは何か」(ルカ10:38-42、ローマ12:11、12)
1)マルタは主イエスの一行をもてなす奉仕に忙しくして取り乱し、それを手伝わない妹マリヤに腹を立てていた。しかし主イエスはマリヤがやっている主イエスの膝元で先ず神の言葉を聞く、主イエスとの交わりを第一にすることが大切であり、それをマリヤから取り上げてはならないことを教えた。キリスト者が人に仕えるのは、主イエスによって贖われ、永遠の命を得、神の子とされた恵みに感謝し、主イエスの弟子として主に倣い従って行くからである。果たすべきことが律法になり、人の頑張りでやると喜びが失われ、人と比べて人を裁いたり高慢になったり、卑下したりすることが起こってくる。主イエスの膝元に常に留まりたい。
2)人を執り成すためにとことんまで祈りたい。神からの平安をいただく。そこから先は神がして下さることを信じよう。
3)人々を建て上げるために神様に聞く。人は様々な偶像や肉的な思い、神以外の偽りの避け所、裁く思い、苦々しい思い、自分中心の思い込み、心を固くして守っている自我があったりする。そのため福音によって赦され癒され解放されることが妨げられている。人の必要のために祈り続けていると、細胞グループのメンバーの必要や語るべき言葉、なすべきこと、それをすべき時を神が教えて下さる。この共同体の中で執り成し合い、神の救いや解放の御業にあずかりたい。
 
 
 
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第二主日礼拝:2010年10月10日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「その人は頭を下げ、主を拝して、言った、『主人アブラハムの神、主はほむべきかな。主はわたしの主人にいつくしみと、まこととを惜しまれなかった。そして主は旅にあるわたしを主人の兄弟の家に導かれた』。」(創世記24:26,27)
 
題「祈りを聴き導かれる神」(創世記24:1-27)
 アブラハムは年をとり、神の祝福の約束が成就するために息子イサクに良い妻を迎えようと考えた。偶像崇拝を避けカナンの娘を迎えることには反対で、遠く故郷ハランに住むナホル(アブラハムの弟)の子孫から迎えたいと考えた。財産の管理を委ねている年長の僕に、その役目を頼み遣わした。
 僕は長旅の末にナホルの町に行き、夕暮れで女たちが水を汲みに来る時刻であったので井戸の側で待っていた。彼は神に願いをした。来た娘に、「水を飲ませて下さい」と願い、それに対して、「どうぞお飲みなさい。らくだにも水を飲ませましょう。」と言ってくれる娘であったら、その人が主人アブラハムの子イサクのふさわしい人だということにして下さい、と。神はこの祈りに答えて、すぐに、神に願っていたとおりに、しもべに水を飲ませ、らくだにも飲ませてくれる娘が現れた。誰の娘かを問うたところ、願っていた主人アブラハムの親族リベカであることが分かり、主を誉め称えた。リベカに贈り物をし、泊めてくれるように願った。
 早速、兄ラバンと父ベトエルに会い、アブラハムの願いを告げ、祈りの中にリベカに出会ったいきさつを告げ、嫁に迎えたいことを申し出た。ラバンとベトエルは、この事は主から出たことと受け止め、リベカもアブラハムのしもべについて行くことを決心したので送り出した。
 イサクはリベカをめとり、慰めを得た。
1)神は信仰者の祈りを聴き、導いて下さる。
2)アブラハムは信仰によって僕を遣わした。
3)しもべは主の僕として自らをわきまえ、また主人アブラハムの遣いとして仕えた。
4)リベカの父ベトエル、兄ラバンも信仰によってこの出来事を受け取り、リベカを送り出した。
5)神の摂理がこの両家族を結んでいる。
 
 
 
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第三主日礼拝:2010年10月17日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」(ルカ12:20,21)
 
題「何に富む者となるのか」(ルカ12:13-21)
1)群衆の一人が主イエスに、自分の直面している遺産相続の分配を正しく裁いてくれるように求めた。主イエスはそれを拒み、あらゆる貪欲に警戒すること、人の命は持ち物によらないことを教えた。兄弟を訴えてでも自分の権利を守り確保しようとするその人の内にある問題を見られたのであろう。
2)主イエスは愚かな金持ちの譬え話を語られた。彼は豊作で貯蔵する場所がないことに心を悩ませたが、貯蔵用にもっと大きい倉を建てることを決意し、自分の魂に「長年分の食料が確保できた、安心せよ、食え、楽しめ」と言った。しかし神は、「愚か者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られる。そしたら、あなたの用意した物は誰のものになるのか」と言われた。
1)豊作を喜び、それを貯蔵することは間違いではないであろう。だが問題は、この金持ちは、物に富むことによって自分の魂は安心できる、根本的問題は解決できると考えたことである。しかし、命はお金では買えず、命を支配しておられるのは神である。人の命は目に見える持ち物によらない。
2)この金持ちの興味は自分が富み栄えることに集中していた。お金も物も人の生活に必要なものであるが、それが増え豊かになってもなかなかそれで満足しないだろう。もっと欲しくなる。それを多く持つと、心配になったり、争いが起こったりする。金銭や財産が多いから幸せとは限らない。
3)この金持ちは、豊作を与えた神に感謝し、自分を富むことを支えている周りの人々と分け合い共に生きる喜びを分かち合う視点を失っていた。神を愛し(神のいましめを行い)、自分を愛するように隣人を愛することが永遠の命を得る道である。すべてのものは神のものであり、神が支配しておられ、最終的な報いも神が与えられる。神は天に宝を積むことを求めておられる(33)。多くを与えられている者は多くを求められる、多くを任された者は、多くを要求される(48)。永遠的な視点で富む者させていただきたい。
 
 
 
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第四主日礼拝:2010年10月24日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:22-24)
 
題「古い人を脱ぎ捨てて」(エペソ4:13-21)
1)古き人から新しき人へ。異邦人。神の律法に従わない、世の道徳や慣習で生きる人々。自分の欲しいままに生きている人々。人には様々な欲求がある。身体的欲求(生存の欲求)、心理的欲求〔1.所属の欲求、2.力の欲求、3.自由の欲求、4.楽しみの欲求〕自己中心的であると喜びを分かち合う関係を築けない。人間関係で問題を抱える。夫婦、親子、家族、地域社会、職場で。偽りの避け所により欲求を満たす。思い(空想、批判、裁き、自己防衛、自己憐憫、無関心、・・・)、行動(自己正当化、不平不満、読書、引きこもり・孤立、コントロール、責任感過剰、・・・)、自虐的態度や自分を罰する行為(・・・、オカルト、・・・)、他人への虐待、食べ物(チョコレート、たばこ、アルコール、薬物、・・・)、中毒・依存(テレビ、仕事、買い物、賭け事、・・・)、性的中毒(姦淫、ポルノ、・・・)、等。このような古き人を脱ぎ捨てて、新しい人を着たい。
2)神は私たちが主イエス・キリストに対する信仰を告白し、弟子として従って生きていくことにより、古き人を脱ぎ捨て、新しい人を着る者として下さった。すなわち、自分を支配している苦い思い、内なる誓い、石の心を認め、悔い改め、赦され、自分を縛っている習慣や構造を十字架に付け、新しい命を注がれる事によって、癒しや再生を受け、心の深みまで新たにして下さる。そして、教会共同体に属し、神の家族の交わりの中で、共に愛し合い生活することを身につけていく。イエスが道であり、真理であり、命である。主イエスご自身との交わり、また主イエスを中心とする他者との交わりにより、神の力やいのちを体験する共同体に生かして下さる。主イエスから託された育成や宣教の働きを担うことにより、自らのいのちを得る。
 
 
 
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第五主日礼拝:2010年10月31日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
・・・・『まだ席がございます』。・・・・『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。』」(ルカ14:22,23)
 
題「盛大な晩餐会」(ルカ14:15-24)
 主は盛大な晩餐会のたとえから、神の国について語られた。神の国とは、神が私と共に住んで下さる世界で、主イエスは、神と共に食卓に着くのに似ていると語られた。
 しかし、招かれた人たちは一様に断り始める。皆それぞれに理由があったのだ。
 主の祝福に与るには、
@神の招きを断るな。
 神の恵みへの招きはいつもあるのではないということ。応えなければならない「時」があるということを私たちはいつも覚えたい。
A低くされた者が招かれた。
 私たちは自分で自分を低くすることはできない。何が人を低くさせることができるか。それは、ご自分を卑しめて、私たちの世界に来て下さり、ご自分の生命を犠牲にしてまで私たちを愛し通していて下さる主を心にお迎えすることにおいてだ。主は真実に私たちが低くなることを求めておられる。そこにおいてこそはじめて、神の憐れみの高さ、大きさが見えてくる。
 私たちも真実に低くされ、いつも神の招きに応える者とされたい。
B「まだ席があります」
 主人は、「無理やり人々を引っ張ってきなさい」と言われた。「無理やり」とは熱心さを表す。私たちは魂に対する熱心さを持っているだろうか?。