説教の要約:2009年11月
 
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聖徒の日主日礼拝:2009年11月1日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(1テサロニケ4:16,17)
 
題 「 「死を越えて続く望み」(Tテサロニケ4:13-18、1コリント15:50-54、ピリピ3:20,21)
 聖徒の日主日礼拝。罪によって死が人に入り、神から切り離されて、人は滅びる者となりました。しかし神が送って下さった救い主イエス・キリストを信じる者は、罪が赦されて、キリストは死なれましたが甦られたように、その復活の命に与ります。また主イエスの再臨の時に、栄光の体に変えられる望みに生きることができます。
1)死と中間状態。罪によって人は死ぬ者となりました。人は死ぬと、霊と肉体が切り離され、肉体は朽ちていきます。しかし、主イエスを信じる者の霊はパラダイスに行き(ルカ23:43)、主と共にあり(ピリピ1:23)、主の愛の中におり(ローマ8:38)、安息に置かれます(マタイ11:29)。不信仰者の霊は黄泉に行きます。黄泉は死者の住む所であり、地下の国、死の領域、墓、死の状態など様々な解釈があります。
2)再臨と死者の復活。
@終末に、主イエスは弟子たちの前で天に上げられたのと同じ有様で再び来られます(再臨、使徒1:11、他)。最後の敵である死が滅ぼされ、主イエスにあって先に死んだ人々が最初に甦らされ、続いて生きている信者が空中に引き上げられ、主とお会いし(1テサロニケ4:16,17)、主と共に住みます(ヨハネ14:3)。
Aこの復活において、ラッパの響きと共に一瞬に、死人が朽ちない者に甦らされ、主と同じ姿に変えられます(1コリント16:51,52、ピリピ3:21)。これは主イエスが十字架による死から復活された時に顕された栄光の体と同じ体です。霊ではなく、手足を持ち食事をされました(ルカ24:39-43)が、また一方、締め切った部屋に入ってこられ、同時に500人以上の兄弟たちに現れた(1コリント15:6)、御国に属する体です(1コリント15:)。
 聖徒の日、先に召された人々を思い起こしつつ、この死を越えて輝きを増す望みを抱きつつ、主に似る者へと整えていただきましょう。
 
 
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第二主日礼拝:2009年11月8日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「そのとき、イエスは彼らに言われた、『恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい』」(マタイ28:10)
 
題 「先立つよみがえりの主」(マタイ28:1-15)
 復活の出来事に最初に出会ったのは女たちであった。週明けの朝早く暗いうちに、マグダラのマリヤらは墓場に出かけた。何とも気持ちが悪く恐ろしかったのではないか。それにも勝って自分の人生を変え、新しい望みを与えてくれた主イエスが慕わしく、主イエス抜きで自分の生活や将来が見えなかったのだろう。主イエスが捕らえられ、裁判を受け、十字架に架けられ、殺され葬られた。敵の力が、死の力が自分たちを取り巻き、災いが迫っているという思いに囚われる暗がりの中である。失望と落胆は大きい。
 その時、地震が起こり墓石が転がされ、御使いがイエスの甦りを告げ、墓の中を確かめるように命じた。さらに、「イエスは先にガリラヤに行かれる、そこでお会いできる」ことを弟子たちに告げるように命じた。彼女たちは、苦しみを受け殺されるが甦らされることを語られた主ご自身の予告の言葉を思い起こした。彼女たちは恐れつつも大喜びし、走って帰って行った。その途中で、主イエスは彼女たちを待ち構えていたように出会って下さり、平安を告げた。彼女たちにとって、絶対に不可能と思える死を打ち破って甦られた主イエスご自身にお会いすることに勝る大きな喜びと希望はなかったであろう。
 主イエスは彼女たちに、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい。」と言われた。主イエスがペテロら弟子たちを兄弟と呼んで下さった。それは主イエスが十字架に架かり死んで甦られたことを通して、主イエスと弟子たち、神と弟子たちとの関係が新しくなったことを表していた。主イエス・キリストの御名によって生きる者たちが神の子とされ、互いに兄弟姉妹となり、神の家族に迎え入れられたのである。死と滅びを刈り取る死んだ業から離れて、父なる神の御心を行うことを喜びとする神の家族になったのである。女たちは、主イエスに出会った素晴らしい知らせをまだ失望と落胆にある仲間の弟子たちに知らせる使命を与えられた。
 
 
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福音の集い礼拝:2009年11月15日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」(ルカ15:20)
 
題 「父なる神の愛に立ち帰ろう」(ルカ15:11-32)
 弟息子は父から財産を分けてもらい、お金に換えて遠くへ行き、放蕩に財産を使い果たしてしまった。飢饉の中で飢え死にしそうになり、身も心も疲れ果て弱り切って、自分の誤りに気が付き、悔い改めて父の許に帰ろうと決断した。
 帰って来る息子を父は遠くで見つけ、走り寄って迎え、最上のものを身に付けさせ、息子の徴である指輪をはめさせ、ご馳走をして祝宴を催した。父がどれ程いなくなった息子のことを痛み、待っていたか、またそれを見出した時、死んでいた者が生き返ったと大喜びをするか、それはやや異常にも思える程である。主イエスはこの父親の話を通して、父なる神の見失われている人々に対する愛を表された。
 弟はお金さえあれば、人に干渉されず、自分のやりたいことができる、自分らしく生きられる、希望に満ちた将来が手に入ると考えたが、しかし、自分を愛し育てた者たちとの関係を絶ち捨て、彼らを裁き否定して歩む生活からは自己喪失しか得られなかった。家族を愛し神を愛する、神が与えたものを受け入れる時、真の自分を見出せることが分かった。
 畑から帰って来た兄は弟の帰宅と父が催した祝宴に怒り、家に入ろうとしなかった。自分は父の言いつけを守りよく仕えてきたが、自分のために子山羊一匹くれなかったことを訴えた。兄の言うことはもっとものように思えるが、父の思いからは遠く離れていた。兄は自分を義しいとする立場に立ち、弟を裁き、父を裁き、孤立する。律法の中心が神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する(マタイ22:37,38)ことであり、神の御心が"してはならない"(十戒)ではなく、"しなさい"〔受けるよりも与える方が幸い(使徒20:35)、・・・〕であることを見る時、誰も自分を義とすることはできない。神は見失われている者が滅びないで永遠の命を得るためにイエス・キリストを送られた(ルカ5:32、19:10)。
 
 
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福音の集い礼拝:2009年11月22日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
「恐れることはない。ただ信じなさい。(ルカ8:50)
 
題 「光の中に立つ」(ルカ8:40-56)
 長血を患った女性と死にかかったヤイロの娘の出来事は、肉体の癒しのみならず、それも含みながらもっと深い、広い、救いが起こっていることを示している。
 ここに信仰の基本姿勢を読みとることができる。
@主に向かい合う。
 長血を患った女性は、群衆にまぎれ込んで、主の服に触った。すると体が癒されるのを感じた。彼女は群衆の中にいたかったが、主に、「触ったのは誰か」と声をかけられ、主の前に震えながら出ることになった。それは主と向かい合うことだったのだ。その時、主の言葉を聞くことができた。神の前に立つ体験が祝福された信仰生活とならしめる。
A主と共に歩む。
 会堂司ヤイロは自分の娘が死にそうになった時、我を忘れ、主のみもとにひれ伏す者となった。
ただひとり、主と共に歩きながら主の言葉を聴いた。「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ。」この言葉が彼を捕らえ、支え続けた。
 私たちの信仰は、主イエスと向かい合い、捕らえられて、主と共に歩むところから生まれる。
 
 
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福音の集い礼拝:2009年11月29日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」(エペソ2:18,19)
 
題 「神の家族に中に生きる」(エペソ2:19-22)
 神の家族のメンバーとは一週間に30分以上個人的に話し、時間を過ごす少人数の人たち。血のつながりがなくても、家族のように共に過ごす人たち。それは、イエス・キリストを主と信じる人たちであり、キリストのからだの部分とされている。地域の教会に属し、神の家族(オイコス)、「キリストのからだ」の基本単位に属する。聖霊が生きて働かれることによって、互いに愛し合う親しい家族「からだ」が形成される。聖霊によってキリストのからだにバプタイズされた後、公に証するようにと教えられた。(マタイ28:18-20)古い生活に死に、新しいいのちをいただいて生まれ変わった証に、水のバプテスマを受けることです。そして、家族と共に食事の親しい交わりを持ち、またキリストの死と甦りにあずかる聖餐に与ることを大切にする。
 神の家族は互いの人間関係を大事にし、責任を負い合う共同体です。共にキリストの体の部分であり、互いに生かし合う関係にあるからです。誰かが問題を抱えている時、それを見ない関わらないようにするのでなく、神の知恵と力がそこに注がれ、解決が与えられるように、重荷を負い合いたいものです。御霊は御霊の実を結ぶように働かれる。人が責め合い陥れ失望させる方ではなく、互いに生かし合い、建て上げ合う関係を作るように働かれる方である。