11月2日(日)「キリストの愛の迫り」説教要旨

           聖句
旧約
 「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる。それゆえ、きょうわたしがあなたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行わなければならない。」   (申命記7:6-11)

新約
 「このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々も答えうるようにさせたいのである。もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人はすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」   (Ⅱコリント5:11-15)

  ここには私たちの「神との関係」と、「隣人との関係」とが対照的に出てきます。たとえば、次のようです。
「わたしたちは、主の恐るべきことを知っているので - 人々に説き勧める」
「わたしたちは、神に明らかにされていますが、- さらにあなたがたの良心にも明らかになるように」
「わたしたちが、気が狂っているならば、神のため、気が確かであるなら、あなたがたのため」

  このような対比は、よく考えてみると、イエスが、「あなたの全心、あなたの全霊、あなたの全知をつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。第二もこれと同様です。自分を愛すると同じように、あなたの隣人を愛しなさい」(マタイ22:37以下)と言われたことと対照しているように思います。これはわたしたちの神との関係は、当然隣人との関係に反映しなくてはならなりません。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである」(Ⅰヨハネ4:20以下)とあります。神との関係が隣人との関係に反映しない時は、人は抽象的な信仰におちいっているのです。反対に隣人との関係が神との関係から来なければ、その人は人間中心主義におちいっていて、信仰からは離れているのです。

  パウロは言います、「わたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める」と。つまり「神に対する恐れ、信仰をもっているので」、「わたしたちは人々に勧める」。神に対する恐れの心をもっている時、人は初めて隣人に説得することができるのだと。神の前に小さくなっていないひとが、大きな顔をして隣人に口を酸っぱくして説いても、説得力はありません。しかし、反対に信仰に熱心であり、私は神に知られているから、人には分からなくてもよいと言うことはできません。それは神の名をかりた「ひとりよがり」にほかなりません。神だけで隣人がいない信仰は、抽象的で、場合によっては狂信的になります。神を信仰する時、そのまわりには人がいます。その人を無視した信仰は、真の信仰とは言えません。ある小説家の作品に、「人間のいない神」というのがあります。社会に目をつぶって、神の愛を説く信仰は、どこか間違っています。

  ただ「人がいる」と言っても、パウロは人間にこびたり、お世辞を使ったりするわけではありません。彼は誤解されないように、「神のみまえには明かになっている」と言った後、ただちに、「さらにあなたがたの良心にも明かになるようにと望む」と付け加えています。

  パウロは自分にとらわれていない証拠に、「わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない」と記しています。またパウロは、「自分は神に知られているのだから、人に知られなくてもよい」とも言っていません。人間関係のことも、事細かく配慮しています。信仰に熱心な人は、とかく神に知られているのだから、まわりの人間はどうでもよいという投げやりの態度をとることがあります。それが信仰に熱心であるしるしであると。しかし、パウロは反対に、信仰に熱心になればなるほど、人間に対しても熱心になります。そこが普通の人とパウロが違う点であります。ふつう信仰に熱心な人は、人間に知られることを小さく考えます。しかし、パウロは反対に、信仰に熱心になればなるほど、人間に対しても熱心になります。「心をつくし、力をつくして神を愛する」ことと、「自分自身と同じように、隣人を愛する」こととは互いに結び付いています。
   


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