2014年6月22日(日)春の伝道集会説教「あなたにとって信仰とは何か」
説教:蓮見和男

   

           聖句
旧約
 「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。」     (ハバクク2:4)

新約
 「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」     (ガラテヤ5:5-6)

  「信仰」の「信」という字を分析すると、「人」と「言」からできています。「信仰」の「仰」がなく「信」だけなら、まず「人の言」への信頼だけで、そこには神はでてきません。人間の信から始まりますから、一般には分かりやすいです。もちろん信者にとっては、いささかがっかりかも知れません。しかし、ともかく「信」と言う時、「人の言」が出てくることは、初めての方にとって、「信ずる」ということを、大変分かりやすくします。さて人の言が、「信」だとすると、今日の表題を「あなたにとって信仰とは何か」でなく、「あなたにとは信とは何か」と変えることもできます。さらに分かりやすくすれば、「あなたにとって信ずるとは何か」と変えることもできます。一般的に「信ずる」とは何かと問うてみましょう。一般的に「信ずる、信じる」と言えば、だれしも二つのことを考えます、一つは「信頼する、信用する」こと、もう一つは「信仰する」ことです。信仰者は、「信ずる」といえば、(神を)「信仰する」ことと思うでしょうし、一般の人は、(人を)「信頼する」ことと考えるかも知れません。したがって私たちは、「信ずる」という時、一般的には二つの意味があることに気づきます。それは全く全然違った二つの意味です。一つは全能の神を「信仰する」こと、今一つは他の人を「信頼する」ことです。「信」という時、一般的にこの二つのことを意味するとすれば、普通の人の心の中には、「信」と言われて二つのことを思い浮かぶでしょう。もちろん信仰者はより早く「信仰」に思いをいたし、一般の人は「信頼、信用」を思いおこすと思います。そこで次のような結論を引いてもよいでしょう。私たち普通の人の心の中には、「信」と言われた時、その人によって、どちらかが早く思い浮かぶとしても、少なくとも時間が立てば、一方「信頼、信用」が思い浮かび、他方「信仰、信心」が思いだされるのでしょう。 

  ということは私たちが日常生活で、この二つが時間差があっても少なくとも頭の中では、人に対する「信頼、信用」と神に対する「信仰」とが、存在していることになります。ではこの二つは関係があるのでしょうか。私たちは人を信頼する時も、「信じる」という言葉を使います、そして神を信仰する時も、「信じる」という言葉を使います。とすれば、この二つのことは、確かに内容的は天と地ほども違いながら、私たちの中ではどこかでつながっているように思います。人を信用するときも、「あの人を信じる」と言い、神を信仰する時も、「天地万物の神を信じる」と言います。同じ言葉です。ではどこが似ているのでしょうか、今言ったようにこの二つは内容的には天と地ほども違っていますが、またどこかで似ているのではないでしょうか。でなければ私たちは決して同じ言葉を使わないはずです。人を「信用する」ことと、神を「信仰する」こととが、どこかで似ていなければなりません。

  たとえば次のようなことを考えてみてください。私たちの社会は「信」によって成り立っています。相当荒れた社会でも、レストランで食事ができます。その時、その食事に毒が入っていないことを人びとは信用しているのです。乗り物にのります。車掌が暴走しないことを信用しているのです。日常生活では、無意識のうちに互いは互いを信用しているのです。

  問題はその信用の程度です。しかし、この世界では完全に100%信用しないということは成り立ちません。また反対に100%信用していることもめったにないでしょう。日常生活では、適当、適度ということが好まれます。信仰の場合適当、適度ということが有り得るでしょうか。「私は神さまを適度に信じている」という場合、その人は、決して神を信じていないのです。信仰という場合、それは自分の生活の基本にあって自分自身を支えているものでなくては、信仰とはいえないからです。自分を支えているものが、70%だけ自分を支えているというのは、自分を支えていないことと同じではないでしょうか。私たちは神を10%信じるか、全く信じないかどちらかです。しかし、対人の場合もそうです。ある人が友人を「70%だけ信じている」などということがあるでしょうか。その人は、決して信じてなどいないのでしょう。信用ということを、まるで遊びのようにしているのです。

  結論的には、私たちは人に対しても神に対しても、100%信じるか、全く信じていないか、いずれかです。人に対しても神に対しても、半分だけ信じることなどありえないのです。
   


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