12月29日(日)「争いの解決」説教要旨

           聖句
旧約
 「国と主権と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒たる民に与えられる。彼らの国は永遠の国であって、諸国の者はみな彼らに仕え、かつ従う。」  (ダニエル7:27)

新約
 「あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起こした場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの智者は、ひとりもいないのか。しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。そもそも、互いに訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」  (Ⅰコリント6:1-11)

  人間の間には争いは絶えません。愚かな者だけではなく、賢い者もまた、その知恵を尽くして、知的な争いを始めます。コリントの教会は、知識に満ちていることは、前に述べました。そこでは知力を尽くして言い争いが絶えなかったのでしょう。しかし、教会であっても、この世と同じく争いがあることは免れません。ただこの世と違って、教会には、信仰的ルールがあります。まず聖書の指針があります。それから代々の教会が決断してきた範例もあります。そのような伝統にのっとってさばけばよいのです。ところが、今コリントの教会では、「あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起こした場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことするのか。それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか」とあるように、教会での紛争を、この世の裁判所に訴え出る者がいました。

  私たちの教会の中にも一回か二回、きわめて数は少ないですが、そのような例もありました。いずれもあまりよい結果をえられませんでした。ただ教会の醜態がこの世の噂話になっただけです。教会には教会法にのっとった、法制度があります。戒規の規定にのっとったさばきの制度もあります。教会の戒規は、聖書にのっとってできています。教会員はこれに従うべきです。「それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の仲裁をすることができるほどの智者はひとりもいないのか」とあります。教会の事件は、教会の法でさばくべきです。この世の裁判所にもたらすべきではありません。チャーチ・コート(教会の法廷)というのがあることを忘れてはなりません。「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の仲裁をすることができるほどの智者はひとりもいないのか」。教会には長老がいます。教会規則には、こう書いてあります。「戒規の目的は、教会の秩序と清潔とを保つとともに、被戒規者の益をはかるにある。したがってこれを行うときには、主イエス・キリストの教訓の精神に従わねばならない」。

  争いがあることは、仕方がありません。しかし、問題は、そこにいさかいのある時の態度です。ただ人情的、あるいは人間的に適当に処理してはなりません。法に従って適切に処理しなくてはなりません。それがイエス・キリストの栄光の現れる道にほかなりません。私の70年にのぼる教会生活の中で、このような戒規の問題に直面したのは、信徒の時の教会での一回と、教職になってから、東京中会の書記をしていたとき、ある教会の二人の信徒の問題でありました。それは教会法にのっとって正しく処理されたと思います。その後、その問題は再燃しませんでした。正しく教会法にのっとって処理された良い例です。私が教職をしていた約六十年の間に、ただの一回ですから、ほとんどの信徒は出会わないのではないでしょうか。聖書は告げます、「その時、教会の中に兄弟の間の仲裁をすることができるほどの智者が存在する」ことです。長い年月を経た大教会には、必ずそのような信仰的な智者がいるものです。

  私たちは、道徳的な問題は、この世の無神的な、あるいは異教的な人びとの問題で、キリスト者には関係ないと思っている人がいるかも知れません。しかし、ルターも言ったように「キリスト者こそ罪人です」。いや、パウロ自身、自分を「罪人のかしら」と申しました。イギリスの信仰者ジョン・バンヤンの自伝は『罪人のかしらに恩寵あふる』でした。道徳的な問題は、異教的な不信仰な人びとの問題だ、キリスト者の問題はもっと高度だと思っている人は、「キリスト者こそ、この罪の深さを知り、恵みの大きさのゆえに救われた」のですから、この恵みの大きさに感謝し、他人を批判する前に、かえって自ら襟をただださなくてはならないことを知るべきです。私たちは「恵みを受けた罪人」です、まさに「罪人のかしらに恩寵あふる」のです。

  最後に、私たちは道徳的に立派になって、完全なキリスト者になるのではなく、「主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされた」ゆえに、わたしはもはや罪を犯す気がしない、いやできないのです。それは真新しい洋服をいただいた子が、それを汚すことができないで大切にするように、この新しくされた生を大切にするのです。
   


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