12月22日(日)「博士と私たち」説教要旨

           聖句
旧約
 「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから、わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。それゆえ、産婦の産みおとす時まで、主は彼らを渡しおかれる。その後その兄弟たちの残れる者は、イスラエルの子らのもとに帰る。彼は主の力により、その神、主の名の威光により、立ってその群れを養い、彼らを安らかにおらせる。今、彼は大いなる者となって、地の果にまで及ぶからである。」  (ミカ5:2-4)

新約
 「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、『ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました』。ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生まれるのかと、彼らに問いただした。彼らは王に言った、『それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』』。そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、彼らをベツレヘムにつかわして言った、『行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから』。彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国に帰って行った。」  (マタイ2:1-12)

  ここに出てくる「博士たち」と聞くと、今日では、大学の博士号のことを考えるでしょう。しかし、この原語の「マギ」は占星術士(星占い師)のことを指すのでしょう。古代東方には、そのような星占い師がいたようです。星占い師ですから、当然毎晩のように天の星空を眺めて、何か異変はないかと探すのは当然でしょう。エルサレムに来れば、王様にお会いするのも当然だと思います。王さまは何のことか分からないので、当時の知識人、祭司、学者らを集めるのは当然でしょう。学者たちと言っても、それは律法学者ですから、当然聖書を調べて答えをだすのも、事の成り行きからして当たり前のことだったでしょう。ミカ書の言葉に出会い、回答が出されたのも、至極自然の成り行きだったと思われます。しかし、クリスマスとは、そういう日です。つまり、自然にふつうにある日に、ある特別なことが起こる、そういう日です。12月25日といっても、もし救い主が生まれなければ、それはふつうの日でした。しかし、そのふつうの日に、救い主が生まれたゆえに、その日は特別の日となりました。

  クリスマスの出来事とは、ふつうの時に、あるふつうでない特別のことが起こったのです。博士(占星術士)たちは、ふつうに夜空をみあげ、いつも通りに、星を見ていたのでしょう。しかし、そのいつもと変わらない星空に、いつもとは変わった特別の出来事が起こりました。ふつうの星の中に、一つだけふつうでない星がありました。それが救い主誕生の秘義だったのです。救い主キリストといっても、ふつうの赤ちゃんと同じようにふつうに生まれました。しかし、変わったことは秘義だったのです。ただ信仰の目にのみ、それは救い主と映りました。博士たちは、その事を知りました。私たちのふつうの日の中に、ふつうでない出来事を見いだせる人、それが信仰の人なのです。信仰の人と言っても、外見上ふつうの人と変わっているわけではありません。信仰の目は、ふつうの人には分からないのです。

  自然もまた神の創造物です。しかし、外見は何の変哲もなく変わりません。星も神の自然物です。外見はほかの星と変わりはありません。しかし、信仰の目にはそれは違って見えます。博士たちには、信仰がありました。それでその不思議な星を、不思議と見ました。けれども博士たちができることには、限界がありました。この救い主誕生の出来事において、人間のできることには限界があります。博士たちは、星に導かれてエルサレムにまで行くことはできました。しかし、救い主の誕生するベツレヘムまではまだほど遠いのです。それには、ただ一つ聖書の導きを受けなくてはなりませんでした。聞かれた律法学者たちは、聖書をしらべていたから、よく分かりました。ミカ書の言葉 「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから、わたしのために出る」。ミカによれば、ベツレヘムは小さい者に過ぎません。しかし、新約聖書は、マタイ福音書の記述は、旧約聖書の記述を変えています。「小さいものではない」と、この小さいものを「小さいものではない」に変えるものは、信仰です。真の信仰は、いと小さいもののなかに、「小さくないもの」を見るのです。それが真の信仰というものです。博士たちも最初は分からなかったのですが、聖書の指示によって分かりました。

  私たちも分かりましょう。聖書の指示にしたがって分かりましょう。最も小さい者の中に最も偉大なものを見る信仰を分かりましょう。博士たちは、「見る」・「行く」・「捧げる」行為をしました。その信仰は、ただ見ているだけ、考えているだけではありません。救い主のところに「行く」、そしてひざまずいて「捧げる」行為をしました。それは信仰の継続です。クリスマスの信仰は、そこまで必要です。見るだけでなく、行く、そして捧げる信仰であります。
   


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