12月1日(日)「キリストにおける生活」説教要旨

           聖句
旧約
 「主よ、あなたのすべてのみわざはあなたに感謝し、あなたの聖徒はあなたをほめまつるでしょう。彼らはみ国の栄光を語り、あなたのみ力を宣べ、あなたの大能のはたらきと、み国の光栄ある輝きとを人の子に知らせるでしょう。あなたの国はとこしえの国です。あなたのまつりごとはよろずよに絶えることはありません。」  (詩編145:10-13)

新約
 「わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである。たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あったとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。そこで、あなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい。このことのために、わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、あなたがたの所につかわした。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起こさせてくれるであろう。しかしある人々は、わたしがあなたがたの所に来ることはあるまいとみて、高ぶっているということである。しかし主のみこころであれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って、高ぶっている者たちの言葉ではなく、その力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく、力である。あなたがたは、どちらを望むのか。わたしがむちをもって、あなたがたの所に行くことか、それとも、愛と柔和な心とをもって行くことであるか。」  (Ⅰコリント4:14-21)

  パウロはここで、「父」と「養育係」とを分けて考えています。父親というのは、実際にその子を生んだ人、それは世界中にたった一人しかいません。「養育係がたとい一万人いたとしても」、パウロはコリント教会の創設した、いわば父のような人です。パウロがそう言うのは自分を誇るためではありません。「神の国は言葉でなく力である」という、この信仰の事実を示すためなのです。「養育係」は、子供と生命的つながりはありません。しかし、「父」なら全然違います。そこには生きた生命的つながりがあります。パウロが「自分は父だ」と主張したことと、「神の国は力だ」と言っている、この二つのことには一応別ですが、しかし、はっきりとしたつながりがあります。父と子が生命的につながって、そこには言葉だけではない生きた力があります。それと同じように「神の国」も単なる言葉ではなく、力をもったものだと言うのです。なぜなら、「神の国」とは、神さまご自身が支配しているところです。その時、神の国で、神さまご自身が力をもっています。そのように今、「父親」は、生命的つながりをもって、「子」とつながっています。

  信仰は単なる言葉の遊びではなく、一人一人その信じている人の心を動かし、全生活を支配しているものです。パウロは信仰の本質が言葉の知的遊戯ではなく、生活を支配する力強いものであることを示したかったのです。パウロは、自分の伝道者としての生活を、つまり「キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起こさせてくれるであろう」と言っています。そこで「あなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい」と言っています。私たちプロテスタントの教会では、あまりキリストの模倣とは言わず、「パウロの模範にならえ」という道徳的くさい言葉は禁句のようになっていませんか。しかし、パウロはここであえて、「わたしにならえ」と言っているのです。よく「言葉は教えるが、模範は導く」と申します。私たちのまわりには「教える言葉」が氾濫しています。しかし、「導く模範」はどうでしょうか。福音はそのような道徳的な行いではないという批判がとんで来るのではないでしょうか。しかし、厳密に言ってそうではありません。プロテスタントの信仰にも、「教える言葉」と並んで、「導く模範」があります。トマス・アケンピスの「キリストのまねび」という本があります。それは行為の道徳的まねびではありません。キリストに学ぶこと、その行為に従うことです。パウロがここで、「わたしにならえ」と言っているのも、決して道徳的まねびではありません。「信仰義認」から「行為義認」に逆もどりしたのではありません。もともと「信仰義認」とは、行いはどうでもよいのではありません。「信仰の義」とは、「行為から信仰が」という行為主義の順序から、「信仰から行為が」という方向に進むのです。これは行為主義の順序ではなく、恵みの信仰の順序であります。

  ここにすばらしい変化、新しい進歩があります。それは信仰義認からでた、新しい倫理、新しい行為の教えです。このような信仰義認から出た、新しい行為は決して否定されません。いやそれどころか新たに推し進められるべきであります。さてその時、大切なことがあります。それは大切なのは、あくまで「イエス・キリスト」であって、私たちの行いや倫理道徳ではありません。イエス・キリストへの信仰からでてきた、新しい行為であります。
   


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