11月24日(日)「キリストにあって愚か」説教要旨

           聖句
旧約
 「愚かな者は怒りをことごとく表し、知恵ある者は静かにこれをおさえる。」  (箴言29:11)

新約
 「兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、『しるされている定めを越えない』ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう。わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。」  (Ⅰコリント4:6-13)

  コリントの教会は、コリントというギリシアの文化都市にふさわしく、知恵あることを誇り、相手をやつけることで、自分を高め、いばってみせたのです。しかし、パウロは言います、「あなたがたが、わたしたちを例にとって、『しるされている定め越えない』ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見下げて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」。私たちはパウロとアポロを比較して、どちらかを高め、ある種の「たけくらべ」を行っています。しかし、私たちのもっているものは、神からくるのです。人間相互を基準とするなら、上下はあるでしょうが、神から見た時、もはや偉い偉くないの差はありません。しかし、パウロの伝道者としての現実は、苦労の連続でした。いやしくも、一生懸命するに値する仕事なら、必ずそれはどんな苦労もいとわず、またひとから非難をあびたりしても、その仕事の重要性が、私たちを捕らえます。昔から仕事に打ち込んだ人は、自分の身を顧みず、真剣に生きています。

  そうだからといって、私たちはそれを誇ることができるでしょうか。確かに自分が一生懸命した仕事は、つい誇りたくなるかも知れません。しかし、誇ってしまったら、それでおしまいです。「仕事」とは、「仕える事」と書きます。神に奉仕していることなのです。あなたはその仕事そのものを愛するのですか、それともその仕事にまつわる名声を愛するのですか。もし後者なら、あなたは捨て去られるでしょう。その事は、神の前にはいささかも評価されないでしょう。ではパウロにとって「伝道」とは何でしょうか。それはイエス・キリストを宣べ伝えるために、あらゆる労苦をいとはない労働、仕事にほかなりません。その生涯はただひとつ「イエス・キリストの福音を伝える」ということのために、あらゆるものを惜しまず、あらゆる労苦をいとわず、ただ神のためキリストのために捧げ尽くして、自分には何も残らない生涯でした。そこには「誇るもの」など薬にしたくてもない、ただ宣教のための労苦の連続でありました。自分を誇るとか、見せびらかすといった類いのものは皆目ありません。ただイエス・キリストの福音が伝えられるために、自分を捨て、ただキリストの僕に徹したのです。私たちは、そのようにイエス・キリストの僕に徹しているでしょうか。そこに少しでも自分の誇りとか栄誉の片鱗でもあるなら、私たちはもはやパウロの弟子ではありません。イエス・キリスト以外に何ものもなくなった、その時、初めて私たちは少しく、パウロの跡をたどっているでしょう。

  前にパウロは、「神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。そこで神は宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。・・・神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(1:21)と言っています。神の愚かさとは、パウロにとって十字架です。人びとを愛し、福音を伝え、多くの人びとを救いに導きながら、イエスの生涯は貧しく、低く、最後は十字架というむごい死刑の死でありました。これほど愚かな、馬鹿をみた生涯はほかにありません。私たちの信仰は、この十字架の愚かさに従ってゆく信仰にほかなりません。
   


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