11月17日(日)「神の奥義の管理者」説教要旨

           聖句
旧約
 「主よ、わが祈りを聞き、わが願いに耳を傾けてください。あなたの真実と、あなたの正義とをもって、わたしにお答えください。あなたのしもべのさばきにたずさわらないでください。生ける者はひとりもみ前に義とされないからです。」  (詩編143:1-2)

新約
 「このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」  (Iコリント4:1-5)

  私たちは神ではありません。しかし、神と無関係でもありません。パウロはこれを「管理者」と呼びました。「管理者」は真の所有者、主人ではありません。主人から、財産や仕事をあずかっている「管理者」です。神は世界を造り、その管理を人に任せました。管理者に要求されるのは、「忠実」です。神さまやキリストに対して忠実なことです。私たちは、すべてのものをお造りになった神を信じて従わねばなりません。その神に忠実でなくてはいけません。信仰においてその事実は、神以外のものには従わないこと、つまり肯定の反対の否定を含んでいます。したがって、聖書は言います、「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない」と。神ご自身のさばきを信じる信仰者は、神以外の人のさばきを意に介しない。神を恐れる人は、神以外の何者も恐れません。これが信仰の強さです。信仰のない人は、たえず周りを気にして、人を恐れ、物を恐れています。そして神を忘れています。すべてのものを造られた神を恐れることが、第一で最初の最大のことではないでしょうか。

  しかし、ここでは具体的に人間の裁判のことが挙げられています。パウロは「自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで(神の前に)義とされているわけではありません」と言いました。信仰のない人なら自ら省みてやましいことがないなら、それが最上です。しかし、信仰者は人から後ろ指を指されることがなければ、全くすべてが万々歳ではありません。パウロの言葉を思い起こしてください。「わたしは自ら省みて、なんらやましことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である」。わたしのさばきは甘いでしょう。しかし、考えてみてください。私たちの他人に対するさばきは、はるかに厳しいのではないでしょうか。自分には甘く、ひとには厳しく、これが私たちのふつうの姿です。しかし、目に見えない神の「さばき」があります。それははるかに厳しく、激しいものでしょう。「主よ、なんじもしもろもろの不義に目を留めたわば、だれかよく立つことをえんや。しかし、なんじにゆるしあれば、恐れかしこまれたもうべし」(詩編130:3)。

  私たちはこの方を恐れなくてはなりません。すべての不義に目をおとめになる、この主を恐れなくてはなりません。この神が私たちの間に入ってくる時、すべては一瞬にして変わります。自分の自ら省みてやましいところがない、と誇り安心していてはいけません。私たちにはもっと高い、はるかに高い大きい法廷があるのです。すべての罪を見逃さず、捕らえて離さない、そのような恐るべき法廷があるのです。それは神の最後の法廷です。

  そしてそのような法廷を恐れる信仰者は、「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない」。信仰者の第一の基準は、神のさばきです。神のさばきを信じる人は、この神がさばかれる時まで、待たなくてはなりません。そうでないと、真のさばき主である神より早い走り手、神より早いさばき主となるでしょう。信仰者に大事なことは、神が主がすべてのことを始末してくださる、その神のさばきを信じて待つのみであります。さきほどの詩編130編には、「わたしは主を待ち望みます。わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです」とあります。

  最後のみ言葉はこうです、「主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう」。神さまご自身は隠れていますが、そのみ業は、あらわです。これを啓示と申します。すべてを明かにしてくださる神を信じましょう。
   


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