11月10日(日)「新しい天と新しい地」説教要旨
説教:小林宏和

           聖句
旧約
 「万軍の主はこの山で祝宴を開きすべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。主の御手はこの山の上にとどまる。」  (イザヤ25:6-10)

新約
 「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。また、わたしに言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。』」  (ヨハネ黙示録21:1-8)

  ヨハネ黙示録というのは覆いを取り除くために、神から預言者ヨハネに与えられた、言葉と幻、様々な象徴とが、集積された書物です。ヨハネ黙示録は、様々な象徴をとおして、言語的に説明することが困難な秘密の知識を、私たちに伝えているのです。そのような黙示禄の中心のメッセージとは、黙示録の最期の部分21章で告げられている「新しい天と新しい地」です。ヨハネ黙示録は、「新しい天と新しい地」という秘儀を私たちに伝えるため、聖書全体の一番後に位置づけられているのです。「新しい天と新しい地」とは、黙示録21章1節が告げるとおり、最初の天と最初の地ではないものを指しています。そしてまた「新しい天と新しい地」とは、海が無い状態を示しています。

  少し想像してみてください。一体海が無い状態とは、何を意味してみるのでしょうか。私たちにはしかし、想像すらできない光景かもしれません。想像することさえ困難な、海が無いという状態こそが、新しい天であり新しい地であると、黙示録は告げているのです。

  想像することも難しい海が無いという幻は、初代教会のキリスト教徒たちに、根源的な希望を与えるものでした。ヨハネ黙示録が告げる新しい天と新しい地という幻は、教会に集まった者たちを本当の希望で満たし、その者たちを立ち上がらせ、その者たちに新しい力を与えました。そして、聖書の希望により頼んで生きた者が、現実を変え、時代を変え、歴史を変えていったのです。そのような力を与える秘儀が、黙示録の語る「もはや海も無くなった」という言葉には隠されています。

  聖書が語る海とはなんでありましょう。それは例えば、創世記の始め、あるいは詩編、そして黙示録の21章より前の部分を見るとわかります。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:1-2)「海に住む竜よ、深淵よ」(詩編148:7)「わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。」(黙示禄13:1)。つまり聖書によれば、海とは、カオスと闇を意味し、神の支配に対して拮抗する力が潜む場所を意味しています。そして、黙示録の21章は、そのような恐ろしい海が喪失する時が来るということ、干上がる時がくるということを示しています。そこにおいてはもはや人間を脅かす闇の力、悪の力は存在しないのです。そのような闇無き場所、悪なき場所が新しい天であり新しい地であるのです。聖書の語るこの海無き状態が、黙示録1:1が語るとおり「すぐに来る」と信じた、初代教会のキリスト者達は、困難な時代にかかわらず、迫害の時代にもかかわらず、主による希望を失うことなく、揺るがない教会形成と、伝道とを続けていったのです。

  アドヴェントとクリスマスを目前にし、ただ主なる神に導かれ日々を歩みたいと具体的に願う私たちは、聖書の言葉を、より具体的に、私たちの現実と交差させつつ捉えて直してゆく必要があるでしょう。

  黙示録の語る幻は、彼岸的な出来事、天上の神話的な世界、あるいはまた精神的平安の世界を指し示しているのではありません。主イエスから与えられている「主の祈り」のなかで、まず天の支配が、そしてその次に地における支配が祈られるように、聖書の御言葉はいつでも必ず私たちが住むこと地面のことを問題にしています。聖書は、私たちの心の平安とか精神的な安らぎということだけではなく、具体的な地上における平安と平和を、常に問題にしているのです。「新しい地」という言葉は、今日も私たちが生きる、混乱する地上、不安的な要素が数多い地上において、新しいこと、新しい秘儀、新しい支配が「すぐに来る」という希望を明らかにしています。

  より具体的な「新しい地」ということを考えるにあたっても、また「海」がキーポイントとなります。黙示録が書かれた年代は正確には分かっていませんが、早くても西暦の80年代、遅くとも西暦の150年代といわれています。その当時の海、具体的な地中海の海を考えてみたいと思うのです。地中海こそ、わたしたち日本人にとって、あるいは世界中の人々にとってのあこがれのリゾート、バカンスの代表地といえるかもしれません。しかし西暦100年前後は違いました。黙示録の背景にある地中海とは、まさに無くなるべき存在であったのです。
   


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