11月3日(日)「生けるもの」説教要旨

           聖句
旧約
 「あなたの肉と皮とをわたしに着せ、骨と筋とをもってわたしを編み、命といつくしみとをわたしに授け、わたしを顧みてわが霊を守られた。しかしあなたはこれらの事をみ心に秘めおかれた。この事があなたの心のうちにあった事を、わたしは知っている。」  (ヨブ記10:11-13)

新約
 「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から艱難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。」  (Ⅱコリント4:7-12)

  「私たちは、この宝を土の器の中に待っている」。「この宝」とはキリストの福音です。私たちの宝は、案外物質的なものやお金ではないでしょうか。しかし、今バウロは、「キリストの福音を宝」と言っているのです。それは地上的宝よりはるかに勝る宝です。この宝は、私たちが絶望的な状況にいる時にも、救いに導き希望へと変えるからです。ここに「私たちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方暮れても失望しない」とあります。それはどんな困難にも打ち勝つ力です。私たちはふつう「四方から苦しめられたら」、参ってしまうでしょう。この宝の力はどうでしょう。「私たちはいつもイエスの死を体にまとっている」、それは外でもなく、「イエスの命がこの休に現れるためです」。つまりこの宝は、不思議と正反対のものを逆転させる力をもっています。死→命に、失敗→勝利に、不幸→幸せに変える力をもっているのです。その不思議な力はどこから来るのでしょう。それはイエスの死と復活からです。「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています」。このことは今、私たちが愛する者の死を迎えた時、真理です。死の現実とその記憶は、薄らいで行くことはあるでしょう。しかし、その現実は、たえず新しくよみがえってきます。その場合、故人に対する愛が深ければ深いほど、その記憶はあざやかで、決して忘れ難いものになっています。

  「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています」。私たちは今、故人の死というきわめて個人的な事柄、しかも記憶という媒介をへて近づくことのできる思い出、その時、私たちはただ遠い昔のなつかしい思い出にふけるだけです。そこからは何も積極的なことは出てきません。しかし、今、その目を一度死んで、よみがえられたイエス・キリストに向ける時、すべては全く違ってきます。「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています」。

  さて私たちはこれと同じ認識をもっているでしょうか。愛する者を失った悲しみが大きく、その愛情がはてしなく大きくある時、事情は同じではないでしょうか。

  私たちもまた、「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一諸に御前に立たせてくださると、私たちは知っています」と言えるし、そしてその事実にアーメンと唱和することができるのです。キリストの復活の事実は、このように死んだ者と私たちとを近づけます。私たちは友の死、愛する者の死、また親族の死に直面する時、もう一度もどって、イエスの復活に帰って考えてみる必要があります。この死をはさんで、私たちは自分自身の死にふれます。私の死、それについては、私たちは一番深刻に考えざるをえません。なぜなら、この死を考えている私自身がなくなってしまうのですから、死を考えている者自身が今死に直面しているのです。それはもう、死を考えている領域を越えています。それは死が私自身に向かってやってくる、いや攻めてくる。私を襲って飲み込んでしまう。それが死の現実です。ほかの出来事なら、私はそれを客観的に眺めたり、観察したり、考察したりできます。しかし、この死の出来事は、たとえそれが他者の死であったとしても、ただそれを客観的に見ているわけにはゆきません。他者の死に直面した者は、心静かにうつむいているか、涙を流しているか、あるいは声をあげて泣いているかしているでしょう。それはただ客観的出来事であるのではなく、私の心をえぐるような出来事です。それに対して私たちはただ客観的に眺めているわけには参りません。それは私を悲しみにおいやるか、苦しみに導くか、あるいは心深く人間の現実にふれて考え込むかするでしょう。その死が近しい者の死であればあるほど、私の感慨は深いものがあります。しかし、たとえ、私にとって見知らぬ人の死であっても、葬儀にであう時、私は脱帽し、黙祷して敬意を払います。死の現実は、ただ人間の現実であるだけでなく、それは人格的な交わりの問題でもあります。さらにそれは愛の問題でもあります。そこにおいて宗教、信仰が始まる場でもあります。

  「私たちが四方から艱難を受けています」、「迫害にあって」、「倒されて」います。しかし、それで駄目になったのではありません。「四方から艱難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」。「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」。その艱難は私をイエスのいのちに、復活に出会わせるのです。

  この復活の主からすべてを見て行くことを、今友の死が、愛する者の死がそのように導くのであります。人間の死は、イエスの命へと導くでしょう。そのイエスの命とは、十字架に死んだお方の復活において分かる命であります。友の死→イエスの死→そしてイエスの命→復活の生命へと進むのであります。私たちは今日礼拝後愛する者の墓に詣でます。復活の真理は、愛する者を葬ってその帰り道に分かる真理だと内村鑑三は言いました。彼自身事実愛するお嬢さんを天に送ったのです。その帰り道、彼は復活の真理を具体的に生きて悟ったのでしょう。そのイエスは死の墓を空にして、新しい命によみがえりました。そのように、イエス・キリストの死と復活とは、私たちの愛する者の死、またやがて来る私自身の死を越えて、新しい命、それは永遠の命に直面させるのです。
   


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