10月13日(日)「成長させる神」説教要旨

           聖句
旧約
 「主に祝福された者は国を継ぎ、主にのろわれた者は断ち滅ぼされる。人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。」  (詩編37:22-24)

新約
 「兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことはできず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。すなわち、ある人は『わたしはパウロに』と言い、ほかの人は『わたしはアポロに』と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。アポロは、いったい何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水を注ぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。植える者と水を注ぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。」  (Ⅰコリント3:1-9)

  コリントは知識や知恵が重んじられるギリシアの文化都市でした。したがって教会も知的傾向にありました。それは論争を好む教会で、理論で相手を打ち負かすことに主眼があり、真理はおろそかになります。パウロはこのコリントの理論闘争を肉の人の争いと見ています。聖書の学である神学にも、理論的戦いはあります。しかし、その中心は相手を打ち負かすことではなく、真理が立つことです。霊の人は、たとい論争することがあっても、真理のために論争し、相手を打ち負かすための論争はしません。もしそうなると「『わたしはパウロに』と言い、ほかの人は『わたしはアポロに』と」なります。そういう論争をしているかぎり、「あなたがたは普通の人間です」。「アポロは、いったい何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水を注いだ、しかし成長させて下さるのは、神である」。真の神学者は、並の論争よりも一段高いところで、真理の論争をします。その場合、勝利者は神でなければなりません。

  パウロはここで「成長」という言葉を使っています。単に言葉だけの論争は有効ではありません。そこには真の「成長」がありません。私たちは成長しなければなりません。もちろん、その成長は霊的成長であります。真の成長は、ただパウロにつくか、アポロにつくかという単なる人間の争いに終始しません。「植える者も水注ぐ者も、ともに取るに足りない、大事なのは、成長させて下さる神のみである」。もちろんパウロは「神のみ」と言って、その際、人間の働きを無視しているのではありません。「植える者と水を注ぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である」。こうして「植え、水注ぐ」、その人間的働きに、価値を認めています。しかし、その価値は終局的価値ではありません。最終的な価値は、ただ神にのみあります。その最高の価値の手前で、人間の相対的価値を認めているのです。

  皆さん、植物にせよ、動物にせよ、あるいは人間にしても、常にそこに「成長」があります。そして成長があるところには、必ずその成長をさせる人間的面と、それを越えた神的面とがあることは事実です。もし成長の神的面を忘れて、人間的面のみ強調するなら、それは真の成長とはいえないでしょう。神なしに成長はありません。しかし神のみが成長の動力ではありません。そこに絶対的原動力(神からくる)と共に、相対的原動力(人間からくる)があります。この二つが共にあって、初めて真の成長ということがあるのです。

  ここには「大事なのは、成長させて下さる神のみである」と言いながら、同時に、「植える者と水を注ぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である」と人間の相対的価値を認めています。そして「成長」ということは、この二つに支えられていることを忘れてはなりません。私たちの過ちやすい間違いは、その片方になることです。人間の働きを忘れて、神のみになること、あるいは神の働きを忘れて、人間のみになることです。

  私たちの身の回りには、何と多くの成長があることでしょう。植物、動物、そして人間の子供が成長することも、この二つの面があることは同じであります。どんな小さな野の花も、必ずこの二つの面をもっています。タンポポ一つ取ってみても、そこには人間ではできない、神による装いがあります。イエスは言われます、「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6:29)。人間の最高の栄誉以上のものを、この野原に咲くタンポポはもっているのです。成長ということは、この神の原動力を含んでいます。
   


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