9月8日(日)「神の愚かさ」説教要旨

           聖句
旧約
 「そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」  (イザヤ35:8-10)

新約
 「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」  (Ⅰコリント1:21-25)

  ふつう「愚か」という言葉は、知恵のないことについて使います。しかし、「愚かさ」には、このような日常的な意味のほかに、宗教的意味にも使います。親鸞は自分のことを「愚禿(ぐとく)」と言い、自分自身の愚かさを明確にしました。それは日常的「馬鹿さ加減」のことでなく、信仰的意味です。パウロも「神の愚かさ」というように、全く宗教的意味で用いています。ここでは「神の愚かさ」と言われています。しかし、神は「全知全能」で、私たち人間全体をひっくるめたもの以上に賢く、強くあります。しかし、パウロはあえて、その全知全能の神の「愚かさ」、「弱さ」について語るのです。当然その「神の愚かさは人よりも賢い」のであります。では人間の最高の賢さよりも、賢く、人間の最高の強さよりも、強い、その神の愚かさ、神の弱さとは何でしょう。そこには論理の矛盾がないでしょうか。そこでは「愚かさ」の意味が、ふつうの意味を越えてはるかに高いのです。人間の常識の平面で考えているのではなく、神の平面で考えているのです。

  では「人の賢さ」よりも上まわった、「神の愚かさ」とは何を言うのでしょうか。ところで皆さん、教会にくると、そこではこの世の社会的地位や栄誉は、一切問題でなくなります。そこでは神と人の関係のみが問われ、人間社会の人間同士の関係は、ほとんど問われません。信仰をする時、私たち古い自分は投げ出されます。「人もしキリストにあらば、新たに造られたものなり、古きは過ぎ去り、見よ、すべては新しくなった」(Ⅱコリント5:17)

  キリストにある自分を考えて見てください。その時、誰よりも「偉い」、信仰的に上級だなどと言えるでしょうか。一体信仰に上級下級の区別があるでしょうか。ありません。信仰のすばらしいところは、そこでは世間的な上下の区別はなくなり、ただ神の前での、キリストの前での一個の人間「私」があるだけです。世間的偉さ上下はなくなり、ただ神の御前にある自分のみです。それは私たちの人間的「愚かさ」、「弱さ」の徹底した極みを表すのではないでしょうか。地上の賢さ、愚かさ、上下を越えた、最も宗教的次元、そこに立つ時、とことんまで、自分の外面をはいで行き、裸の自分に帰った時、そこに見いだされる、徹底した愚かさの次元、そここそ最も宗教的なもの言えるでしょう。別な言葉で言えば、「私たちは自分の愚かさに徹した時、初めて生ける神にふれることができる」のです。これが人間のあらゆる賢さを越えた、「神の愚かさ」ではないでしょうか。この愚かになりきること、それが信仰です。

  ある人に、それは「信じなければなりません」と言ったら、彼は「そうです、信じきるのです」と答えました。それは「信じる」の一歩先を行っています。それは「信じきる」世界です。ただ「信じる」のでなく、「信じきる」時、見えてくる世界があります。それが「人よりも賢い、神の愚かさ」ではないでしょうか。「自分の知恵によって神を認める」のでなく、「宣教の愚かさによって、神を信じる」のです。それが信仰の愚かさに徹することです。つまり「信じきる」ことにほかなりません。では「ただ信じる」と「信じきる」の違いは何でしょうか。「信じる」と「信じきる」は、仮名でたった一字「き」という言葉が入っただけです。しかし、その意味の違いははるかに大きいのです。たとえば「信じていたが、疑わしくなったのでやめた」というなら、それは決して「信じきっている」のではありません。「信じきる」というのは、たとい「信じている途中で疑わしいことが起こっても、それを乗り越えて信じ続ける」ことです。たった「き」一字ですが、その意味内容は非常に深いものがあります。それを今日の聖句で言えば、「自分の知恵によって神を認める」のでなく、「宣教の愚かさによって、神を信じる」ことです。

  「宣教の愚かさによって、神を信じる」とは、ここでいえば、まさに「信じきる」ことを意味します。「愚かさ」という網の目をくぐって、さらに信じ続けるのです。ではどうして「宣教は愚かさ」を含んでいるのでしょうか。それは「自分の知識、知恵を捨てる」からです。信仰はあるもの、しかも大切なあるものを捨てなければ、入ってこないような何物かです。その大切なものを捨てることが、「愚かさ」です。そうでしょう、もし賢い人なら、決して大切なものを捨てるような事をしないでしょう。むしろ、その自分にとって大切なものに最後までしがみついているでしょう。関東大震災の時、自分の荷物を捨てられないで、大八車で家財を積んで逃げた人の車に火がついて、それにしがみついて死んだ人のように、まことに愚かとしか言いようがありません。信仰は宣教の愚かさは、あなたのものを捨てよと命じます。俗に「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬はあれ」と言います。信仰は自分を捨てて、飛び込むことによって新たな救いを得ます。その捨てきることが、信仰の「愚かさ」です。
   


Copyright(c)2013 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.