2013年8月11日(日)主の祈り連続説教-6「罪のゆるし」
説教:蓮見和男

   

           聖句
旧約
 「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。わたしは主を待ち望みます。わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。わが魂は夜回りが暁を待つに勝り、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。イスラエルよ、主によって望みを抱け。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。主はイスラエルをそのもろもろの不義からあがなわれます。」  (詩編130:1-8)

新約
 「イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、『子よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた。ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、『この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか』。イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、『なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために』と彼らに言い、中風の者にむかって、『あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ』と言われた。すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、『こんな事は、まだ一度も見たことがない』と言った。」  (マルコ2:5-12)

  「主の祈り」の第五祷は、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」となっています。原文では「私たちが、私たちに負債のある者たちをゆるしましたように、私たちの負債をゆるしてください」です。私たちの罪をゆるしてくださいと祈るのに、「私たちが、私たちに負債のある者たちをゆるしましたように」と、条件文のようなものがついています。しかし、これを厳密に条件ととることはできません。もしそうなら、私たちの罪のゆるしは、「私たちが他人の罪をゆるした」という条件で、ゆるすことになります。しかし、条件付きのゆるしは、本当に意味でゆるしでしょうか。むしろ取引ではないでしょうか。本当のゆるしは、無条件でなければ、「真のゆるし」とは言えません。とすれば、この条件文は何でしょうか。「私たちがゆるすごとく」となっています。もし私たちが他人の罪をゆるさない事実がありながら、「私の罪をゆるしてください」と祈るなら、それは誠実さを欠いています。自分勝手の極みです。神はそのような自分勝手な祈りを聞き入れません。「私たちが、私たちに負債のある者たちをゆるしましたように」というのは、決して条件ではありません。それは私たちの誠実さの現れ、証拠にほかなりません。神はその条件でゆるすというのではなく、もし私たちが誠実にこの自分のゆるしを祈るならば、私たちは他者をゆるしていなければおかしいということです。それが「ごとく」の意味です。事実証明とでも言いましょうか。私たちの罪のゆるしを求める祈りは、誠実でなければなりません。

  次に「ゆるし」の内容ですが、「ゆるし」とは、「ごまかし」ではありません。厳密な神の義を「ゆるめる」、「緩和する」のではありません。しかし、今日の聖書の箇所にあるように、「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」。もし神の義が、細かい罪も見逃さない厳しいものなら、だれも立つことはできません。しかし、あまり厳しいから、それをすこしゆるめるというのではありません。神は義であると共に、愛でもあります。いやむしろ、神の本質は、「神は愛なり」と言われるように、愛そのものです。義である神は、同時に愛なる神であります。それは神さまは80%義であるが、20%は愛だというのではありません。ローマ3:26を見てごらんなさい、「それは今の時に、神の義を示すためであった。こうして神みずからが義なり、さらにイエスを信じる者を義とされるのである」。信仰によって義とされる、その神のゆるし、愛は、ほかでもなく、「神が自ら義を示し、神自らが義となる」、この神の義の徹底するところに、神の愛があるのです、神の義と愛は、一つことの表裏をなしているのです。神は徹底して義である、その時、同時に徹底して愛にいますのです。「ゆるしの愛」は、義のごまかし、あるいは「ゆるめ」ではなく、むしろ義の徹底です。神のゆるしは、神が義を徹底し、ただそれを御子の上に徹底したことによって、こん御子を信じる者を義とするのです。それが真の「神のゆるし、愛」にほかなりません。

  それはただイエス・キリストにおいて、成り立つのです。なぜなら、イエス・キリストは神であり同時に人であるお方にほかなりません。神として義を宣言し、すべての人をさばきます。しかし、同時に人として、全く私たちの側に立ってくださいます。そこには完全な「ゆるし」と「愛」があります。そのことを如実にあらわす出来事があります。ヨハネ福音書8:1-11です。姦淫の現場で捕まえられた女が、イエスのもとに引っ張ってこられました。人びとは激高して言います、「この女は姦淫の現場で捕らえられた者で、律法によると、石打ちの刑にしなくてはなりません。人びとはイエスに意見を聞きます。イエスは初め黙って地面に何か書いておられましたが、人びとがあまりしつこく聞くので、やおら身を起こして申し渡します、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げ付けるがよい」。これを聞いて、皆一人去り二人去りして、誰もいなくなりました。イエスは女に言いました、「女よ、あなたを罰するものあいないか」。女は辺りを見回して言いました、「主よ、誰もいません」。イエスは言われました、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい」。この物語の中で、イエスの言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げ付けるがよい」は、まさにこの場における、上からの神の義のさばきの声ではないでしょうか。一体私たちの中で、一度も罪を犯したことがないものはいるでしょうか。この神の上からの義のさばきの声の前に、自分こそはと、石を取り上げる者はいませんでした。それどころか、この義の言葉のまえに、皆自分を反省し、一人去り二人去りして、誰一人いなくなりました。誰一人罪のない者はいないのです。このことはパウロが「義人はいない、一人もいない、神を求める人はいない、一人もいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、一人もいない」と言っていることに対応するでしょう。その時、イエスも「わたしもあなたを罰しない、お帰りなさい」といいました。義が徹底するところ、神の愛、ゆるしが勝利します。

  このように真の「ゆるし」とは、義の徹底する、その先に神の愛が勝利するところです。神は義でありつつ、同時に愛であります。そこに真の「ゆるし」があります。それはイエス・キリストなしにはありません。
   


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