>6月30日(日)「数の信仰・名の信仰」説教要旨

           聖句
旧約
 「主はこう言われる、わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。」  (イザヤ56:4-5)

新約
 「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」  (ピリピ2:6-11)

  私たちはふつう「数の社会」と「名の社会」は相反するものと考えます。ところが近代社会は「資本主義」の社会で、また同時に個人主義の社会とも言われます。資本主義は「数の社会」ですが、そこに同時に存在する個人主義は、「名の社会」であります。つまり、私たちが生きている近代社会は、数を中心とする資本主義と、名を中心とする個人主義が共に生きている社会です。私たちも現実の生活の中で、この二つをうまく使い分けています。たとえば選挙の時、候補者は一人一人自分の名を呼びます。投票に際して人びとは「名」を書きます。けれども開票となると、そこでは名だけでなく、むしろ数が問題になります。

  聖書では、「名」と言うことが大切にされます。まず神さまの名です。主の祈りでは、「願わくは御名をあがめさせたまえ」と祈ります。また聖書には、神が私たちの名を読んでくださるとあります。たとえばイザヤ書に「わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。」(45:4)とあります。けれども「主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。」(40:26)とあり、数も名も問題になっています。

  聖書では、私たちの神に名があります。「ヤハウエ」と呼びます。永遠とか絶対者といった普通名詞ではありません。固有名詞をもっています。またその神は私たちを個々人、その名で呼びます。さらに私たちはお互いにその名で呼びあいます。信仰は「数」と「名」を比べたら、それは数よりも名を重んじます。一人一人が神に造られた大切な個人だからです。私たちは集合名詞で呼ばれることがあります。たとえば「日本人」とか、「キリスト者」とか、どこどこの「住人」とか呼ばれます。しかし、その時には個よりも、数の方に重きがあります。日本人の人口は何人とか、世田谷の教会には信者が何人いるかとか聞かれます。その時、一人一人の個人は問題ではなく、総体が問題です。それは政治や経済、社会学の問題になります。けれども信仰では数よりも名が大切です。

  「おはようございます、誰々さん」と、名を呼ぶ社会は進んだ社会でしょう。名無しの社会は、それだけ封建度が強いと言えるでしょう。封建社会は、上からの社会です。そこでは名よりも数が大切です。個人主義の社会になって、初めて個々人の名が呼ばれます。信仰は、特にキリスト教は、個々人の救いが問題です、そこでは個々人がその名で呼ばれます。しかし、教会でも数が問題になることがあります。組織としての教会では、統計とか数が問題になります。その時、教会はその本来の使命である宣教をしていません。会議をしています。会議や組織も最小限には必要です。しかし、それは教会や宣教の本来の目的であります。

  名前を大切にしようという運動が成功すれば、それは教会の仕事の半分ぐらい進んでいることにならないでしょうか。たとい宣教が進んでいても、そこでその結果である数が目的だったらば、それは教会の宣教と言えるでしょうか。教会において数が減ったことを心配するとしたら、それは数ではなく、その数に隠れている、一人一人の個々人を心配しているのです。三人減ったとすれば、誰々さんと誰々さんとが来ていないことを心配しているのです。「名」を心配するところ、それは神の御名と関係があります。私たちの信仰の基本は、一人の名を大切にすることから始まります。そのことは、同時に、「神の御名」を大切にすることに通じます。教会へ来た時、ここでは自分は大切にされていると感じられれば、その教会は正しく、良い教会です。人数の中の、大衆の中の一人として扱われる教会とは、大きな違いがあります。数の教会になってはなりません。名を貴ぶ教会にならなければなりません。そこでこそ、イエス・キリストの教会となることができるのです。
   


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