5月26日(日)「旅人をねんごろに」説教要旨

           聖句
旧約
 「主は、マムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、言った、『わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。水をすこし取ってこさせますから、あなたがたは足を洗って、この木の下でお休みください。わたしは一口のパンを取ってきます。元気をつけて、それからお出かけください。せっかくしもべの所においでになったのですから』。彼らは言った、『お言葉どおりにしてください』。そこでアブラハムは急いで天幕に入り、サラの所に行って言った、『急いで細かい麦粉三セヤをとり、こねてパンを造りなさい』。アブラハムは牛の群れに走って行き、柔らかな良い子牛を取って若者に渡したので、急いで調理した。そしてアブラハムは凝乳と牛乳および子牛の調理したものを取って、彼らの前に供え、木の下で彼らのかたわらに立って給仕し、彼らは食事した。」  (創世記18:1-8)

新約
 「愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、艱難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をねんごろにもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」  (ローマ12:9-15)

  日本は島国で三百年も鎖国であったため、外国人に親切という習慣がありません。外国人を見ると、こわごわ遠くから眺めている始末です。自分が外国で生活した経験がないから、日本に来ている外国人が何を求め、何に困っており、不自由しているか、皆目分かりません。ドイツにいる時、日本人学校の校長先生が赴任し、校長宅にはいりました。その時、マンションの前の家に住むドイツ人が大きな花束をもって挨拶にきました。校長先生一家はびっくりしました。日本なら、新規に住む人の方から挨拶に回るのに、それが反対に向こうからきてくれたので、こんな親切な国かと安心したそうです。私たちはこのように外国人に親切に振る舞うことができるでしょうか。これから日本も世界の国々と仲良くして行かなくてはなりません。「旅人をねんごろに」、この一言を忘れないようにしましょう。

  しかし、パウロはどうして「旅人をねんごろにもてなせ」と、勧めているのでしょうか。その理由は、すぐ前の「キリストのからだ」ということから来ているのです。「神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、私たちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互いに肢体だからである」。

  すると私たちが「旅人をねんごろにもてなす」のは、私たちがキリストを中心としたからだで、互いに肢体だからです。「旅人」と言ったのは、異邦人、外国人を指すのでしょう。キリストは言いました、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも、良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも、正しくない者にも、雨を降らしてくださるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。兄弟だけに挨拶したからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか」(マタイ5:44-47)。

  「兄弟だけに挨拶する」、自分の気に入った人にだけ親切にする、これは私たちのよくやることです。その事の反面は、「兄弟以外の人には、不親切」なのです。「兄弟」を自分と同質な人、「兄弟でない人」は自分と異質な人とも言えます。私たちの人生は、この同質、異質の関係でできています。しかし、イエスは言われます、「神はよい者にも悪い者にも太陽を上らせ、どのような人にもわけへだてせずに雨を降らせてくださいます」。「一視同仁」という言葉があります。それは「すべての人を差別しないで同じように愛すること」です。神は一視同仁です。しかし、私たちは、反対に「兄弟にのみ挨拶する」、同質と異質、兄弟と他人を区別します。

  「旅人」で思い起こすのは、ヘブル書の言葉です。「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」(11:13)。つまり、これまでは旅人というのを空間的に考えて、外国人としましたが、このヘブル人への手紙では、時間的に考えて、私たち人間がすべて神の国を目指す旅人だというのです。その場合、旅人は他人ではなく自分自身にもあてはまります。これまで旅人とは、自分と異質な人で空間的に隔てられた人と考えましたが、今や時間的に考えて、自分自身がこの世界で旅人なのだと。

  ところで、このような旅人の考えは、「旅人をねんごろにもてなせ」の旅人とは、違ったものですが、そこには密接な関係もあります。なぜなら、自分を人生の「旅人」と見なすことは、完結していない「いまだ」を含んだ者と見ています。その時、この未完成の自分から、他者へ思いをはせることがないでしょうか。二つは信仰的につながっていないでしょうか。神さまから考えた時、自分は人生の旅人である。その時、「旅は道連れ、世は情け」というように、旅人のはかなさは、横に向かって「人情的に」連帯意識をもつことがあります。人生の旅人は(時間的)、同時に「世は情け」と(空間的に)人情をもってつながることになります。それは「旅人をねんごろにもてなせ」と進んで行きます。

  信仰者は、神の国の旅人ですから、同時に情けをもつ愛情をもった旅人となるのです。ここに時間的旅人と空間的旅人が結びつきます。この「結びつき」が大切です。そうでないと今日の題「旅人をねんごろにもてなせ」は、親切という倫理的徳目の一つになってしまいます。私たちの「旅人をねんごろに」は、親切の一つではありません。私たちの信仰から出てくる大切な行為です。ある意味でキリスト教倫理の一環であります。信仰は自分を完璧な者とは考えさせず、かえって不完全な者とみなします。その不完全、不十分から、まだ目標に達していない「旅人」が出てきます。そこから同じ不完全な隣人に対して、「同病相憐れむ」、あるいは「弱さの共同体」ができるのではないでしょうか。二つの旅人は、こうして信仰において結びつくのです。
   


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