5月12日(日)「よみに下り」説教要旨

           聖句
旧約
 「わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す』。その時あなたがたが死とたてた契約は取り消され、陰府と結んだ協定は行われない。みなぎりあふれる災いの過ぎるとき、あなたがたはこれによって打ち倒される。」  (イザヤ28:17-18)

新約
 「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕らわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。」  (Ⅰペテロ3:18-19)

  「よみ」とは何でしょう、辞書には「黄泉」とあり、「黄泉」とは、「死者のゆくところ」と書いてあります。イエス・キリストがその「よみにまで下って行かれた」のですから、地獄とか黄泉といったところはなくなったと見るべきではないでしょうか。こういう話があります。ダルマンという神学者は、ある信仰深い老人にいろいろ神学について聞いたところ、非常に明快に答えるので、最後にこう聞きました、「では神さまがあなたを地獄におとしたらどうだ」と、するとかの老人は言いました。「私は地獄のあることを知らない。もし地獄があっても、イエス・キリストが共にいますなら、地獄もまた天国である」と。ダルマンはこの老人のすばらしい答えに感心したということです。私たちもまた言いましょう、「私は地獄のあることを知らない。イエス・キリストが共にいますなら、地獄もまた天国である」と。問題は「よみ」という場所がどこか、ではありません。それだけなら大切なことが抜けています。そこには私たちの信仰の中心であるお方、イエス・キリストがいません。私たちにとって大切なのは、このイエス・キリストへの信頼と信仰であります。

  「こうして彼は獄に捕らわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」。キリストが地獄にまで行かれた、このことに注意してください。ではイエス・キリストは地獄まで行って何をしたのでしょうか。そこで「宣べ伝える」ことをしたのです。キリストはほかでもなく、わざわざ地獄に行って、福音宣教をされたのです。Ⅰペテロには続いてこう書いてあります。「これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである」。つまりここでイエス・キリストの地獄での宣教の対象は、まず第一に不信仰な反逆者たちであります。もし死後にも、キリストの宣教の要素が残っているとすれば、私たちは救いについて何も心配する必要はありません。

  ベンヤミンという人は、「名もなく死んだ人びとの名を覚えることは、生者の責任である」と言いました。聖書にも「キリストは死者と生者の主となるために、死んでよみがえられたのである」(ローマ13:9)とあるではありませんか。しかも、生者よりも死者の方が先になっています。「よみにまで下り」ということは、今日のⅠペテロの言葉においても、イエス・キリストが死者のために配慮されていることを知って、驚き感謝する以外にありません。私たちは最近東北の大地震、大津波によって、多くの人命を失いました。家族にそういう人をもつ方の悲しみはどんなにか大きいでしょう。しかし、ここにはイエス・キリストの死者に対する配慮があって、私たちの大きな慰めであります。「こうして彼は獄に捕らわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」とは、深くかみしめ、味合うべき言葉ではないでしょうか。
   


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