4月21日(日)「異邦人」説教要旨

           聖句
旧約
 「またあなたの民イスラエルの者でなく、あなたの名のために遠い国から来る異邦人が、――それは彼らがあなたの大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及ぶからです、――もしきて、この宮に向かって祈るならば、あなたは、あなたのすみかである天で聞き、すべての異邦人があなたに呼び求めることをかなえさせてください。そうすれば、地のすべての民は、あなたの民イスラエルのように、あなたの名を知り、あなたを恐れ、またわたしが建てたこの宮があなたの名によって呼ばれることを知るにいたるでしょう。」  (列王上8:41-43)

新約
 「そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なる者ではなく、律法を行う者が、義とされるからである。すなわち、律法をもたない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互いにあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明かにされるであろう。」  (ローマ2:12-16)

  クリスマスに生まれたばかりの救い主イエスを最初に訪ねるのは、異邦人である東方の博士たちです。今日のローマ人への手紙2:12-16を見てください。ここではパウロは異邦人の救いについて記しています。「律法をもたない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである」。ここには驚いたことに、イスラエルに受け継がれた記された神の律法の外に、異邦人に対しては、異邦人の心にも記されている「自然の律法」があるというのです。パウロは、「異邦人が自然のままで、律法の内容をそのまま行うことがある」と自然による啓示を説いています。

  さらに「彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互いにあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである」とあります。その異邦人の心に記された「自然の律法」は、自分のした行為が、その良心という律法に照らして、正しいかどうかを、判断し、明かにするというのです。しかし、それはただ「自然の律法」であるだけでなく、「わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明かにされるであろう」とあり、神の国の到来の時に、それはキリストが隠れたことをさばかれる、キリストの律法になるというのです。

  とすれば私たちは、未信者というかも知れませんが、「未信者」とは、「いまだ信じていない人」という意味です。とすれば、その人は、「やがて信仰者になる可能性をもつ人」でもあります。また未信者を「求道者」と言います。信仰者はすべてある意味で「求道者」、終末に向かって求道者なはずです。

  では信仰なくして死んだ人はどうなるのですか。キリスト教が日本に来る前の人は救われないのですか。幼くして死んだ人はどうなのですか。今日の聖句は、そのような問いに答えています。「神にはかたより見ることはない、律法なしに罪を犯した人びとは、律法なしに滅び、律法をもつ人は律法によってさばかれる」。異邦人で信仰なくても、知らずしてキリストの愛に生きていることはあります。彼は、隠れたキリスト者でありうると言うのです。このことは私たち信仰者のうぬぼれを打ち砕くでしょう。見えない神は、人をその外見でさばかれず、根本に横たわる隠れた内なるものをさばかれるのです。では信仰はいらないのでしょうか。いいえ、そのことは「神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明かにされる」でありましょう。

  神が人をかたより見ず、神なき異邦人も救われるとしたら、これは確かに解放であります。けれども「すべての人が罪を犯したゆえに、神の栄光を受けられなくなっている」(ローマ3:10)。これはすべての人をその原点に立たせ、ことごとく罪のもとにおきます。人はすべてこの罪という無のもとにあります。これは同時に、すべての人を平等にします。そこで明かになるのは、十字架のキリストです。キリストは、人類すべての罪を、十字架の上で負われました。十字架においては、罪が明かになると同時に、救いも明かになります。「十字架の言葉は、滅びる者には愚かなれど、救われる私たちには神の力、神の知恵である」(Ⅰコリント1:18)。 十字架には二つのことが、しかも二つの相反することが含まれています。一つは、罪、さばき、もう一つは、救い、あがないであります。十字架の縦の棒は、さばき、を表し、横の棒は救いを表しています。この相反する二つのことが、交差し重なるところに、キリストはいますのです。「父よ、彼らをゆるしてやってください。そのやっていることが分からないのですから」。「今日、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
   


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