4月14日(日)「信仰と知識」説教要旨

           聖句
旧約
 「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。」  (箴言1:7)

新約
 「それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」  (コロサイ2:2-3)

  聖書自身は、「信仰と知識」をどのように考えているのでしょうか。パウロは、ある面、信仰の立場から知識を低く見ているようにも見えます。「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」(Ⅰコリント8:1)。しかし、こういう否定的な言葉は、ここぐらいで、ほかには、「ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ」(Ⅰコリント12:8)。「キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明かにする」(Ⅱコリント4:6)。「あなたがたの愛が深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり」(ピリピ1:9)。「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いいさい隠されている」(コロサイ2:3)。このようにパウロは決して知識を軽視していません。パウロが否定するのは、愛を失った知識のみです。ハイデルベルク信仰問答にも、「まことの信仰とは、神がご自身の御言葉において私たちに啓示されたことを、みなまこととする確かな認識だけではなく、また聖霊が福音によって、私たちの中に起こしてくださる心からの信頼です」と、信仰は「信頼と認識(知識)」の二つの面から説かれています。

  アンセルムス(1033-1109)という教父は、「信ぜんがために知らず。知らんがために、われ信ず」言いました。知識を積み上げて信仰に達するのではない。むしろ、知識の前提として信仰があるのであると言っています。科学でも同じです。科学は自然を前提としています。自然の存在は科学で証明することはできない前提です。アンセルムスの言うところは、「知識→信仰」ではなく、「信仰→知識」です。

  信頼と認識とは、信仰において車の両輪のように、相携えて行くものです。私たちの場合も、信仰がまずあって、この自分の信仰とはどのようなものかと知的反省が起こるのではないでしょうか。すると私たちの場合も、アンセルムスと同じく、「信仰→知識」という順序をふみます。知識には、知識としての使命があります。それは物事を順序だて、理非曲直を明かにすることです。しかし、信仰においては神への信頼というものがあって、初めて知識は正しく用いられます。その意味でも「信仰→知識」の順序です。

  アンセルムスという人は、「信じて後、知ろうとしない者は怠け者のそしりをまぬかれない」とも言いました。信じているだけでなく、この自分の信仰はどのようなものか、知的反省がないと、とんでもない間違った方向に行きかねません。ちょうど自動車にエンジンだけあって、方向を定めるハンドルがないと、自動車はどこへ行くか、暴走しかねません。エンジンを信仰とすれば、このハンドルの役目をするのが、信仰の知識であります。

  たとえば、「教会とは何か」、「礼拝とは何か」、「聖餐にはどのような意味があるのか」、その他、いろいろな問いが起こってくるでしょう。それに答えるのが神学(信仰の知識)です。

  次に神学には対象・方法によって、区別があります。1.聖書神学、2.組織神学、3.実践神学、4.歴史神学です。そしてさらに聖書神学は旧約聖書と新約聖書に分かれ、それぞれが緒論・神学・釈義に分かれます。次に組織神学は、弁証学・教義学・倫理学に分かれます。実践神学は、説教学、牧会学、教育学に分かれます。歴史神学は、教会史・教理史・信条学などに分かれます。しかし、このような多岐にわたる区別は専門の神学であって、信徒神学はそれほど細かい区別はありません。主に信徒の神学は分かりやすい組織神学です。
   


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