3月17日(日)「十字架の一つ手前」説教要旨

           聖句
旧約
 「その時アモツの子イザヤは人をつかわしてヒゼキヤに言った、『イスラエルの神、主はこう言われる、あなたはアッスリヤの王セナケリブについてわたしに祈ったゆえ、主が彼について語られた言葉はこうである、『処女であるシオンの娘は、あなたを侮り、あなたをあざける。エルサレムの娘は、あなたのうしろで頭を振る。あなたはだれをそしり、だれをののしったのか。あなたはだれにむかって声をあげ、目を高くあげたのか。イスラエルの聖者にむかってだ。」  (イザヤ37:21-23)

新約
 「彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。イエスは女たちの方に振り向いて言われた、『エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだと言う日が、いまに来る。そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう』。」  (ルカ23:26-31)

  クレネ人シモンはマルコによると、「アレキサンデルとルポスの父」と書かれています。なぜでしょう。「アレキサンデルとルポス」なる人物は、当時のクリスチャン仲間でよく知られた人物だったのです。ということはクリスチャンだったのでしょう。するとこのシモンもクリスチャンになったのでしょう。シモンは最初十字架刑の騒ぎで物見高い群衆の一人です。それが不幸な巡り合わせで、ローマの兵隊に見つかり重い十字架の木を背負わされ、ヴィア・ドロロサ(苦難の道)を歩まされたのです。しかし、彼が重い十字架を背負うのは、救い主イエスとは違います、その道には限りがあります。イエスが十字架につくゴルゴタの丘までです。そこでシモンの負った十字架は、イエスに渡されます。して見れば、シモンは運び屋に過ぎません。イエスは本当に十字架の上で死にますが、シモンは後は、解放され普通の生活にもどります。

  さてこのシモンについて、私たちの信仰に照らして次のように言うことができるでしょう。私たちは初め信仰はなく、ただイエスを見物するだけです。教会に来る初めは、キリスト教とはどんなものか調べて見よう、初めはキリストを信じていないことは確かです。そこで突然不幸な出来事に会います。それは十字架の横木をかつぐ程度のことです。苦労はありますが、十字架のご苦難とは比べものがありません。ついに私たちの人生の労苦はすべて十字架の上なるお方が背負われたという信仰に達します。その時、私たちのかついだ十字架の木はイエス・キリストのみが負われます。これがこのシモンの出来事の信仰的解釈です。

  もう一つの解釈があります。それはイエスの弟子たちが、十字架を恐れてどこかへ逃げ去っていた時、この無縁の通行人が十字架の木を背負うことになりました。預言者イザヤは、「わたしは、わたしの名を呼ばなかった者に呼ばれることを求める」(イザヤ65:1)と言っています。神はイエス・キリストの名を知らない通行人を呼びもとめられます。もちろん不幸がよいわけではありません。またローマの兵隊の暴行がゆるされるわけでもありません。ただ私たちの信仰は、この不幸、行き掛かりの暴行をさえも、神の恵みの働く場所と変えてしまう力があるのです。ここに出てくるシモンは、まさに私たち信仰者に対する問いであります。つまり、弟子たちが、傍観者になった時、実に神は、傍観者を弟子としたのであります。強いられたもの、いやいや負わされていたものも、負っているうちに、それが恵みあふれるものに変わるのであります。「強いられた恩寵」という言葉があります。それはこのようなシモンの姿を言うのではないでしょうか。

  次にここにはもう一つのことが記されています。「大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの方に振り向いて言われた、『エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい』」。イエスの十字架への道で、それを見ていた悲しみ嘆いてやまない女たちがいます。これはふつうの人間の情を記したものです。今私たち十字架のあがないの信仰をもつ者にとって、この人間の情は、少しおかしなもので、何か違和感があります。その通り、イエスは「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」と言われました。十字架に対して人情的なことは、全く場違いもはなはだしいと言わねばなりません。その時、私たちは自分たちの罪を忘れているからです。同情すべきは、十字架のイエスではなく、罪深い私たちです。シモンと同じ点は、ここにも十字架の傍観者がいると言うことです。

  私自身が罪深く、その罪のゆえに死ぬと分かっているなら、その罪のために負われる十字架のあがないは、ありがたく拝受しなくてはならない、神の恵みの賜物なのではないでしょうか。その点、その重要な点が分からずに、ただ十字架はおしたわしいと嘆くのは、まさに場違いです。傍観者的無理解の極と言われても仕方ないでしょう。イエスはこの傍観者的無理解に囲まれて、十字架につかねばならなかったのです。
   


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