3月10日(日)「いと小さき者」説教要旨

           聖句
旧約
 「主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に悲しみをいだかなければならないのですか。いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、わたしの目を明らかにしてください。」  (詩編13:1-3)

新約
 「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った。『いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか』。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らを真ん中に立たせて言われた、『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。まただれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる』。」  (マタイ18:1-6)

  ベンヤミンというユダヤ人の哲学者は小さき者を愛し、名の真理を語りました。ベンヤミンの言葉で胸を打ったのは、次のことです。「これまでの歴史はみな勝者の歴史だ。そこには敗者がいるはずだ。歴史の中で敗れて死んだ者の名を刻むことが生者の使命である」。「人、ものに名を与えることが真理である」。この「名」の真理は聖書の真理です(創世記2:19)。神に名があります。「願わくはみ名をあがめさせたまえ」、「イエス・キリストの名によってお聞きあげください」と祈ります。預言者イザヤは言います、「わたしは主、あなたの名を呼んだ」(イザヤ45:3)と。

  こうして聖書の真理は、1.神がわたしの名を呼んでくださる。2.わたしが神の名を呼び、神をあがめる。3.私たちが互いにその名を呼び合うことです。西欧社会では、挨拶の時、必ず「おはよう誰々さん」と名を呼びます。日本人は、「おはようございます」と言いますが、「おはよう誰々さん」とはあまり言いません。日本の社会は「名なしの社会」で、名がでる時は自分の名前で宣伝です。それは本当の名の信仰ではありません。

  さて今日の説教は、「いと小さき者」です。「まただれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。いと小さき者をイエス・キリストはその名をもって呼ばれます。ショーレムというベンヤミンの友人は書いています。「すべて小さいものは、ベンヤミンを非常にひきつけた。小さなもの、いと小さきものにおいて完全性を表現ないし、発見することは、彼の最強の衝動のひとつであった。彼は1927年の8月にわたしをパリのクリューニーの博物館に引っ張って行き、そこに陳列されていたユダヤ教の儀式用品の収集の中で全く心を奪われて、わたしに二粒の小麦を見せてくれたが、その上には、ユダヤ教の祈り『イスラエルよ聞け』が全部書かれていたのである」。名の哲学のベニヤミンは、とりもなおさず、いと小さき者を愛する人でした。

  今日の聖句をごらんなさい。「天国でだれがいちばん偉いのか」。私たち今日の人間にとって、「だれがこの地上で、世界で日本でいちばん偉いのか」が問題でしょう。たけくらべです。しかし、イエス・キリストは幼な子を真ん中に立たせて「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである」と申しました。そこには価値の転倒があります。何かをした人間ではありません。何もしない人間、大きな人間ではありません。いと小さい人間です。自分を偉く見せる人間ではありません。自分を低くする人間であります。そしてそのような幼な子を受け入れる者は、イエス・キリスト御自身を受け入れるのです。しかし、それには「心をいれかえて幼な子のようにならなければ」なりません。「心をいれかえる」、それはイエス・キリストの心になることです。価値の転倒「悔い改め」が起こらねばなりません。信仰とは、神に向かって転換すること、「幼な子のように自分を低くする者」へと変化することなのです。

  次に「受け入れる」とあります。カウンセリングでは「受容」(受け入れ)と言います。相手に教えるのではなく、深く耳をそばだて聞くことです。誠実な真剣な受容が、導きの糸です。その時、相手自身が(神によって)解決を出します。「キリストも私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れあって。神の栄光をあらわしなさい」(ローマ15:7)。この真理をまとめると、1.相手の人格を認め、それを尊重する。2.指示をしない、回答をあたえない。3.誠実に聞く。これはまた神の前における自分の姿でもあります。それはまた幼な子を受け入れる態度でもあります。
   


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