3月3日(日)「われは禍を創造す」説教要旨

           聖句
旧約
 「わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである。わたしは主である、わたしのほかに神はない。わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である。」  (イザヤ45:4-7)

新約
 「しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。」  (Iヨハネ2:8-10)

  「わたしはわざわいを創造する」とは驚くべきことです。神は世界を創造された時、それを良しと見られたと創世記にあります。それなのに「禍いを創造する」とは何でしょうか。生ける神がわざわいを創造するのは、選びの民が間違った行動を取る時です。その国を正しい一人の神を拝ませるよう強制するのが、わざわいを創造する時であります。したがって生ける神がわざわいを創造するのは、わざわいが目的ではなく、さばきを行って、民を正しい方向に導く手段だったのです。

  「人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである」とあるように、それは真の神を知らせる目的をもっています。ではよく自然災害などがある場合、多くの人は、あるいは少数の人びとは、これは神のさばきであると語る場合があります。この間の東北の大地震、大津浪は、「これは神のさばきだ」と語る人がいました。ただ自然災害をすぐに神のさばきと結びつけるのは、少し無理があります。なぜなら、自然災害は、罪のある人も、ない人も引っくるめて災害に会わせます。中には無実の人が災害を受け、反対に悪い人が災害を免れたりします。それでは正確に神のさばきということはできません。イエスは言われました、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。またシロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」(ルカ13:2-5)。災害=刑罰=神のさばきという図式は危険であります。

  しかし、テモテ書が言うように、「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」ことが正しいのなら、神の業として、「われはわざわいを創造する」ということが言えるのでしょうか。「わたしは主である。わたしのほかに神はない。わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である。すべてこれらの事をなす者である」。このイザヤ書には大切な二つのことが書かれています。一つは、「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」ということ。もう一つは、「わたしは主である。すべてこれらの事をなす者である」ということです。前者は、「わざわい」や「暗き」は創造の反面で、そこには「光」と「繁栄」の創造がペアで描かれています。それは一日に昼と夜があるように対照しています。「神は、神を愛する者たち、すなわちご計画にしたがって召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、私たちは知っている」(ローマ8:28)。このように万事が、光も闇も、昼も夜も、幸いもわざわいも共に働いて益となるようになさる、そのことが神の摂理ではないでしょうか。皆さん、片方だけ、光や善だけの世界を考えてください。そこで善も善ではなくなり、おおよそ退屈な世界が生まれるでしょう。悪もまた何かの役割を果たしているのです。ちょうどベイントン師が病気のとき、神さが「上を向くように、病気をお与えになった」と言ったように、病気という悪もまた、私たちを神に向かせる働きをするのです。「わたしが主である」ことを表すしるしとなるのです。

  神ご自身が実に「禍い」を創造するとすれば、それは私たちが考えた以上の、常識で考えられる以上の救いではないでしょうか。良いものを救うのなら、当たり前です。神は悪いものをも救うお方です。そこにこそ神の神たるゆえんがあるのです。イエス・キリストは言われたではありませんか。「わたしは善人を招くために来たのではない。罪人を招くために来たのだ。健やかな者は医者を必要としない。ただ病める者のみ医者を必要とする」と。もし生ける救いの神が、ほかでもなく罪人のためにあるとすれば、神が禍いを創造すると言っても、決しておかしなことではなく、正当なことを語っているのではないでしょうか。
   


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