2月10日(日)「一生懸命」説教要旨

           聖句
旧約
 「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。」  (申命記6:5-9)

新約
 「するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、『先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか』。彼に言われた、『律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか』。彼は答えて言った、『「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。また、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」とあります』。彼に言われた、『あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる』。」  (ルカ10:25-28)

  「一生懸命」という言葉は聖書にありません。ただここにあるように「心をつくし、精神をつくし、力をつくして」という言葉が、それに当たるでしょう。しかもここでは、その一生懸命に心をつくし、力をつくすのは、「愛」においてです。新約聖書では、その一生懸命の愛は二つに分れています。一つは主なる神に対する愛、もう一つは隣人に対する愛です。しかし、この二つは別々でなく、「第二もこれと同様である」(マタイ22:39)と結びついています。イエスは一番大切な戒めについて二つをお示しになりました。二つのうち一つが欠けても、両方が見えなくなります。神への愛は、隣人愛の根拠であり、隣人愛は、神への愛の証しの場所です。

  ではどうして「愛」と一生懸命が結び付くのでしょうか。「愛」は、一生懸命つくさなくては、「愛」にならないからです。反対に「ちょっと愛する」なら、それは「愛」にならないからです。つまり「つくす(一生懸命)」ということは、「愛」にのみふさわしいことなのです。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」となっています。また「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」となっています。この隣人愛は、はっきりと「自分を愛する」と同じにとなっています。

  では「自分を愛するように」とは、何を意味するのでしょうか。ふつう考えれば、人間は誰しも「この自分を何よりも先に愛しています」。その一番と同じように隣人を愛しなさいという意味です。しかし、「自分と同じように」ということは、他者を愛することは、自己否定をともなうことも意味していないでしょうか。そして隣人を愛することは、この自己否定が難しいのです。真剣な一生懸命な愛は、恋愛の中に現れます。恋愛は当事者にとっては絶対です。友情は、それほど真剣ではありません。恋愛は確かに自分勝手な個人的なものですが、それにもかかわらず、当事者は真剣そのものです、それが駄目になるならば、死のうとさえ思い詰めます。私たちの人生でほかにそんなに命懸けになるものがありますか。この恋愛は案外利己的でありながら、一生懸命という愛の本質を象徴的に示しています。

  「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして」ということを、恋愛では、誰からも言われなくても、そのとおりにやっているのではないでしょうか。ところがここで、イエスは「よきサマリア人のたとえ」をお話しになりました。強盗に会った人に親切な行為をしたのは、同胞ユダヤ人の祭司や宮に仕える人ではありませんでした。ユダヤ人が、嫌って付き合いしない、サマリア人でした。イエスはたとえの最後に尋ねました、「誰がこの強盗に会った人の隣人となったと思いますか」と。同胞ユダヤ人ではありません。ユダヤ人が嫌って付き合いもしないサマリア人でした。イエスのこの問いは、あなたを愛する側ではなく、傷つき倒れて愛を受ける側においたのです。私たちはふつう、自分たちを人に親切にし、愛を施す側におきます。しかし、イエスはその位置を逆にします。あなたを弱い側に、愛を受ける側におきます。自分を苦しむ側に身をおかなければ、苦しむ者の気持ちは分かりません。そしてイエス・キリストというお方は、自分を苦しむ側におき十字架にかかられました。それは「あなたもまた、自分を苦しむ人の側において、その苦しみを負って歩みなさい」と言っておられるのです。その時、あなたは自分一人でそれをしているのではありません。イエス・キリストと共に、人類の苦悩を十字架に負われたお方と共に負っているのです。そして決して忘れてならないことは、その時、あなたは十字架から復活へと勝利の道を歩んでいるという、そのことです。イエスの十字架に復活が続くように、あなたの労苦が、十字架の主に従うものならば、必ずそれは復活につながるのです。
   


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